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狭き門より入れ

私が学生であった頃、狭い門から入ったいいということを先生に言われた気がする。私自身もなんとなく難しいことからやった方が、あとが楽というか成功しやすいと感じていたので、この考えには賛成であった。この言葉を今になって調べてみると、キリスト教の『新約聖書』マタイ伝第七章に「狭き門より入れ。滅びに至る門は大きくその路は広く、これより入る者多し。いのちに至る門は狭く、その路は細く、これを見出す者なし」から転じて、成果を得たいならば、困難な道を歩む方が良いということのようだ。

この言葉通りに、私は狭き門であった理系の研究職についた。そこは狭き門であり、限られた条件の人しか行けない世界であった。狭き門に入って私は30代となり、いちプレイヤから管理職、研究の舵取りをするような立場となった。新しいものを周囲と生み出すための多方面へのケアを行っている。今となって振り返ると、困難な道を進んでも自分が満たされることには繋がらなかったという所感を抱いている。

できないことをできるようにして、ある専門的な知識を得たり、周囲と比較して卓越した能力を身につけると、様々な課題は解決できるようになる。頼りになる人になれる。しかし、結局のところ何がしたいのかという、何事も志ありきのように思える。今目の前のことに夢中できなければ、困難な道を進んで成果は得られるが、心は満たされないという話だ。それは周囲にも伝わり、成果物にもその形が出る。

知識やテクニックを身につけることは手段である。手段はある程度皆がやりやすい、合理的という方法に至ることができる。これは芸術や表現の世界でも言えるが、ある程度物事を洗練させると、その表現は極めてシンプルになる。余分なものがくっついていない状態となる。体系立つ。しかし、その形には個性がない。形式美ではあるが、熱量はない。

何かを極めて完成した形を見つけると、成長し続ける人はその完成されたものを壊す。あえて余白を残す。不完成である形とする。それは不安な人は許さない。心地よくないと攻撃する。しかしそれでいい。現状維持は衰退に繋がる。ずっとある分野に居続ける必要はない。自分のアンテナに引っかかるがままに、やることをコロコロ変えていくことで、時代に対応し、新しいものを生み出し、それが狭き門に入る前の自分が憧れていた形になっている。

狭き門から入ってできないことをできるようにしてもいいことはない。それならば、周囲からどんなに反対されようと、今の自分がやりたいことをやるのがいいと思う。しかし、生活している中でなんだか忙しくて疲れたり、なんのために自分はこれをしていたのだっけ?と時に悩む時がくるかもしれない。そんな時は自分の応援団を見つけることだ。根拠なくいいんじゃん?と言って信じてくれる、笑いかける友を見つけることだ。そのような人をそばに置くだけで、どんどんと満たされた世界を歩むことができる。苦しいことを嫌々する必要はない。自分が好きだなと思えるものに取り組んでいるだけで、全てがうまくいくようになる。自分が一番ご機嫌でいられる門を選ぶことだ。

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