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自由に生きるとは

私は30代のサラリーマンで現在休職中だ。そんな私は自由に生きることをしたくて、休職を選択した。

元々フリーランスや自営業といった形に憧れを覚えていた。思い返せば、学生の頃の私は自分で何か始めるというのは、とてもエネルギーのいることだった。アルバイトを探すにも難しい。探したとしても判断基準を家から近いや有名、成長できそうなどの条件しか持ち合わせていない。応募するにも自分は受かるのだろうかと、ひどく不安を感じたり過度に期待した自分がいた。アルバイトを探すのは難しいと書いたが、探す時はネットで検索すればいいのかもしれないが、どのHPを見ればいいかわからない、たくさん出てくる情報に判断できない、不安な気持ちや期待でいっぱいになる。正直冷静ではないなと思いつつも、将来のことを思うと行動しないわけにもいかないなと思い、不安ながらも一生懸命ポチる。人によってはこれは別に大変なことではないが、当時の私は一生懸命だった。懸命に何がベストだろうと考え、都度出会う情報に気持ちが振れた

そうした自分の気持ちの一喜一憂が、私の喜び、幸せだと思っていた。今でもそう思う。私は刺激が好きだ。しかし、30代となり自分のことを引いて捉えることができるようになった今では、ひとりの時間の静寂の満たされを知っている。ヨガをやって自分の身体の変化を感じる。気持ちが鎮まっていくことを感じる。絵を描いて、何か新しい知見がある。文字を起こして新しい認知に至る。それらは少しずつだが世界を拡大する。つながりを感じる。一体感を感じる。気持ちには感情はない。ただ静寂である。

昔は外からの刺激に感情や想いが湧いた。期待や不安を覚えた。起こるイベントに対して反応し、自分の持ち合わせた知識で将来のことを想像して不安にもなり、これまでのことを考えて落ち込んだり、大丈夫と思ったりしていた。何かとせわしなかった。サラリーマン時代では外の刺激からできることを増やした。なんでもひとりでできるようにはなったが、かつてイメージしたフリーランス、自営業といった形とどこか違った。サラリーマンをしていると、周囲にこたえた。自分にこたえていなかった。金銭的にも時間的にも自由であったが、どこか不自由であった。そうした中で、自分にこたえるために”えいや”と踏ん切りをつけて休職した。しかし、一日やる気ががなかったり、気分で何かに没頭してみたり振れ幅がすごい。私が想い描いている”満たされている人”はこのような特徴を持ち合わせていない。好きなことをやっていいと言われても正直わからない。ゲームや本を読むこと、自分を言葉や絵で表現することは好きだが、なぜか疲れる。また気持ちが不安になる。気持ちが振れる。

当初思い描いていた姿と今求めている姿は変わっていない。しかし、振れる気持ちについて”焦点”や”鍵となる言葉”は絞られ洗練されてきている

洗練されてきているとはどういうことか。学生時代、私は自分でなんでもできるようになりたい、自立、自律したいと思っていた。そのためにバイトを探したり勉強したりとしていた。これらは全て不安であることに起因していた。マイナスをゼロにしたいと望んでいた。サラリーマン時代から現在は少しずつニュアンスが変わっている。マイナスであった状態がゼロとなって、ゼロをプラスにしていくための試行錯誤をしている。自分にこたえるということをしようとしている。つまり、今求めている姿はゼロをプラスにする姿なのだ。空っぽな状態からより満たされていく形にしていく状態なのだ。かつての、マイナスをゼロにする、湧いてくる不安や焦りを無くすための行動ではないのだ。当初抱いていた、フリーランス、自営業、自由に生きるというのは、マイナスをゼロにする状態とゼロをプラスにする状態のどちらも含まれていた。どちらにも焦点があたっていた。私のアンテナにはどちらの状態になる情報どちらもひっかかった。今はゼロをプラスにする安心する、満たされるための情報がひっかかる。その特徴に気づける。それを構成する条件が分かる。かつての自立や自律には生活する、自由に生きるというのはマイナスからプラスの範囲どちらも含まれていた。現在はマイナスをゼロにできたため、自由に生きる、自分にこたえるという言葉の中にはゼロからプラスへの条件を抽出する網の隙間を狭くして要件を拾っている。つまり、かつての気持ちが振れるという状態には、”マイナスからゼロの状態”と”ゼロからプラスの状態”のどちらも持ち合わせていた。焦点や鍵となる言葉の範囲が広かった。

自由に生きるという状態にも2つあると思う。不安な状態でそう思う状態と安心した状態でそう思う状態だ。不安な状態であると、イベントに反応する。気持ちに左右される。学生の頃にバイトに応募するにあたっての気持ちの揺さぶりだ。安心している状態はイベントにはあまり反応しない。

現在休職する中で好きであろうことをしても、ゲームをしても、本を書いても、絵を描いても疲れる、気持ちが不安になる。気持ちが振れると述べたが、これもゼロからプラスの状態に入る。これらは、環境の変化による脳の衝動といったところだ。これまでは誰かに何かを求められた環境にいた。学校や会社はそのようなところだ。なんでも好きなことを好きなようにしていいとはいかない。休職している自由に生きている今は、自分で感じて判断してやっていく。これまでは無意識レベルで他の人にこたえてくることに最適化していたので、それを自分のこたえていくという過程でのギャップである。

なぜ私がこの状態をここまで言い切れるのかと言えば、自分のこと細かな変化を記憶し、回顧し情報を整理を常にしているからだ。これを放置して考えないこと、感じない、無視することもできる。しかし、私はあの手この手を使ってその小さな変化を見逃さない。なぜその振れが起こったのかといちいち考える。最後まで追求する。これは研究職の中で得た泥臭いところをキチンとする自分のいいところが出ていると思う。

自由に生きるには”マイナスをゼロに持っていくこと”と”ゼロをプラスに持っていくこと”の2種類がある。世の中で流行っていること、溢れている情報、つまり自己啓発のような本であったり、心理学、精神科といったところはマイナスをゼロに持っていくことしかしない。何か型をつくってそれを当てはめてくる。こればかりやっているといつまでたってもマイナスの世界を無限ループする。なんだか大変な状態になり、黒い気持ち、つまりは怒りや不安、嫉妬、焦り、憎しみが固まる。ゼロをプラスにするループには永遠に入れない。自由に生きる日は来ない。

自由に生きるためには自身のささやかな気持ちにこたえることだ。自然にできることをやることだ。これは人によって本当に違う。正解はない。しかしあまりにも曖昧であるため、多くの人は”自分にこたえる”と言われても人に確認したり、世の中の基準に付け合わせたりする。何か他人から評価する条件などを求めたりする。それをアピールしたりする。そんなことをしてもゼロをプラスにするループには入れない。余計に囚われるだけである。

これは歳を重ねたからといってできるわけではない。一生、何かに執着して囚われて亡くなる人もいる。マイナスからゼロのループの中でゼロからプラスのループの世界を知ることなく生涯と終える。厳密に言えば状態は離散的なので、一瞬はゼロからプラスのループに入っていることもあるが、その時間は限りなく短い。本人は自覚しない。多くの時間はマイナスからゼロのループに入る。

私が長たらしくこのように情報を発信しているのは、同じことに悩んでいる人はたくさんいることを知っているからだ。かつての自分がそうだったように、なんとかしたいと悩んでいる人がなんと多いことか。休職して誰とも関わらない生活をしていても、ちらりほらりとマイナスからゼロの世界で無限ループしている人に出会う。なんだか弱っている生き物に出会う。弱っている生き物を見て共感する。私の周りにはイキイキしている生き物がいる。ゼロからプラスの世界で無限ループしている人がいる。その人たちの子供のような無邪気な姿は見ていて気持ちがいい。接していてとても元気になる。不思議と自分も笑顔になっている。

私は勝手にSNSの中で誰かのメンターになっていると思っている。私の発信する情報はマイナスをゼロにすると思っている。ゼロをプラスにすると思っている。メンターと言うと主従関係がありそうだがそうではない。ただ生きている生き物として同じスタンスで、こっちの方が水が美味しいよ、と情報を与えているのである。別に水が美味しそうだという情報を得た相手がどう行動しようが構わない。それがその人であり、生き物としての姿だと捉えている。ただ、この困難な社会の中で弱っている生き物、弱っていく生き物がなんと多いことか。マイナスからゼロのループで長いこと苦しんでいる生き物がなんと多いことか。ゼロからプラスの世界を知らない生き物が多いことか。

休職して今日も別に何をしても構わない生活をしている。自由に生きている。ゼロからプラスのループのトラップにハマる日もあるが、なんだかうまくいく時の中で過ごしている。これまでは具体的なことを表現してきたが、今後はもっと抽象的なことをやっていこうとなんとなく思っている。このなんとなくが自分をどこに連れていくかは分からないが、今日も好きなこと、一軍に囲まれて、あたたかな時を過ごしている。



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