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仮面をつけていると、周囲は仮面だらけになる

仮面をつけていると、仮面に囲まれる。仮面とは囚われのことである。囚われは、執着を生む。執着は行動、思考を制限する。本人だけでなく、周囲に対してもそれを求める。

例えば、完璧を求めて努力家の人が仮面をつけると、恩着せがましくなる。些細なミスも見逃さず、融通がきかない。他にも、冷静で分析力がある人が仮面をつけると順応しなかったり、どこか冷酷になる。穏やかで協調性のある人が仮面をつけると、面倒なことを嫌い、ことなかれ主義となる。

仮面をつけた人にこたえても満たされることはない。むしろ、仮面をつけている人は自分の不満を解消できるので、いつまでも要求してくる。攻撃してくる。搾取してくる。無視する。行動が極端になり、その甘えはとどまるところを知らない。

自分が仮面をつけていると、周囲は仮面だらけになる。それは依存的な関係であったり、その立場に共感できるためである。類は友を呼ぶ。しかし、近づいてきた人は友ではない。自分がどこかうまくいかない、疲れた、大変だという状態をわかって欲しい。解決したいから、近づいてくるのである。自分のわがままを受けとめてくれるから、近づいて来るのである。甘えられるから近づいてくるのである。友とは、相手がどのような状態であってもいいとする人である。こうしなければならない、ああするべきだと、アドバイスという形で言ってくる形が友ではない。心配しているから言ってきても、それは友ではない。友は無条件であなたを信じる。どういう形になっても理解する。何かの価値観に伴って強制することはない。

しかし、自分が仮面をつけていると友はなかなか現れない。というよりも、現れているが、その影を潜めている。仮面をつけている人は主張が激しいので、そのような人に隠れて見えなくなっている。実はそばにいるのだが、仮面の人が過度に干渉するので、なかなか近づくことができない。近づこうとするようなものなら、仮面をつけている人はそれを許さない。敏感に察知する。なぜなら、自分が甘えられなくなる、自分だけ辛い状況におかれる、見捨てられる、などとあらゆることを思うからだ。何かと感情に訴えて、理屈をこねて離れることを許さない。

仮面を外すためには、ひとりになることである。休息することである。何もしないことである。不安であると人は何かしようとする。貧乏ゆすりしたり、寝言を言ったり、ガムを噛んだり。無意識のレベルで、普段は意識していない行動で、何かしようとする。衝動的に何かしたくなるとは思うが、それをしたところで満たされることはない。むしろ、その衝動を抑えられなくなる。衝動にこたえることが不安に感じなくなることではない。何もせずに頭も身体も空っぽにすることが、自分は大丈夫と思うことに繋がる。

休息すると、安心するようになる。自分は大丈夫だと思う。そこに何か理由はなく、これまでの自分の人生に何か意味づけることでもない。自分はこういった人間だと決めることでもない。根拠を積み重ねて大丈夫と思うことでもない。ただ、そこで呼吸しているだけで、いるだけで大丈夫と思えることはできる。安心する。

安心すると、意欲が湧いてくる。その意欲にはエゴがない。エゴがない意欲は、こうしてやろう、ああしてやろうと狙ったりしない。うまくやろうともしない。下手でいい。やってみたいからやってみる。やってみると、うまく行かない。だが、それでいい。そのことを楽しんでみる。例えるならば、それは誰かに操られているようである。決して操られているわけではないのだが、エゴー自意識がないので、気付いたらやってた、勝手にやってた。そんな形である。先程の貧乏ゆすりしたり、寝言を言ったり、ガムを噛んだり都いった勝手にやっていることではない、これらは不安から勝手に身体が動いている。安心すると、興味で何かしようとする。子供が走り回るかのように、気付いたらやっている。どうしてそれをしているかと言われても、こたえようがない。気付いたら走ってた。それが好きだから、とこたえるわけでもない。好きとは意識していない。意識するでもなく、勝手にやっている。無理がない行動である。

安心しているー仮面を外している状態になると、周囲は仮面を外している人に囲まれる。その人たちが無垢である。子供のようである。目がキラキラしている。何事も意欲的である。創造するものもユニークである。しかし、この状態は誰しもがなれるわけではない。皆成長の過程で仮面をつける。囚われができる。その囚われがあることに気がついて、意識して外した人が、仮面を外した、囚われのない状態となる。

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