つくったものを見せると

満たされた人につくったものを見せると"いいね"と言う。本当にいいと想っている。どうしたらもっと良くなるかな?どうしていけばいいと思う?と聞いても、やってみたいようにやればいいよと話す。悪いところはないの?確認してよ!と言うと、それが満たされた人がやりたいこと、興味があることならばいいよとこたえる。そうして確認してコメントを添えるが、どれも否定的な要素はない。

例えば文章ならば文法的間違いがあれば指摘する。しかし、些細なことであるので、その量が多い場合は指摘しない。それで本当に伝えたいことが埋もれてしまうためだ。そのようなことは問題ではないと知っている。確認にはメンターのような要素が入ってくる。

メンターとは助言者のことだ。恩師のような人だ。ひとりひとりに合わせて、言葉をかける。それは必ずしもアドバイスであることもない。自分と共に過ごすことで、その様子を伝えることもある。

満たされた人は文章に対して、その人の表現したいものやどこに進もうとしているのかを察知して言葉をかける。その言葉は受け手の受け取り方の様子や何か悩みがある場合にはそれを明らかにして次はどこに歩んでいくのがいいのか話を聞くこともある。何かこれがいいと断言することはあまりない。

不安な人につくったものを見せると、まず批判から入る。結果に対して趣味レベルの批判をする。その批判は時には作り手のパーソナリティに関わることを言う。しかし、不安な人はそれが悪いことと思っていない。自分がそう感じたのは事実であるし、事実を述べて何が悪いんだ、といった形である。自分がかけた言葉に対する影響を考えない。気づかないと言う方が近いかもしれない。

不安な人はつくったものの進め方に対してもあれこれ言ってくる。自分ならこうする。それは正論である。確かにそれは合理的な手段であるかもしれない。しかし、やってみていない人が言うことは容易い。同じようなことをやったことある、と不安な人が主張し、自分のやり方がいかにいい方法か語っても、その人と作り手は能力が違う。得意なことが違う。置かれている環境が違う。不安な人にとってはそれは成功パターンかもしれないが、作り手にとって、自分が自然とできないことは全て負担でしかない。やりにくさしかうまない。

不安な人につくったものを見せると、足を引っ張られる。作っている時はあんなに楽しかったのに、不安な人に見せたがために、それが楽しいと感じなくなることがある。それほど不安な人の態度は強力だ。本人にはこれがベストと囚われがあるので、話が通じない。こちらの相談などできようがない。しようものならば、不安な人の知識の中で、思い付くことの中で、あれこれ決めつけられて終わる。

満たされた人につくったものを見せると、より創作活動が捗る。自分は最近これにハマっているよと本人のお気に入りのものを伝えてくる時がある。それはなんだか素敵だ。これまでの自分の畑にはなかったものだ。そのようなものと自分の創作が折り重なって、新しい素敵なものをつくれる。ユニークなものを気づいたらつくっている。それは一層満たされた人を呼び、どんどん豊かになっていく。お金に困らなくなる。時間もできる。自分がエネルギーを割きたいことを取り組むことができる。できないことはできる人が手助けしてくれる。優しい世界だ。

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