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私はどうしたいのか?

 私は当事者がどう考えて行動し、周りにどのような影響があるか具体例が示されながらまとまっているが好きです。たとえば次の4冊です。

 そんな私の今の状態を説明するならば「無職」です。そんな私ですが、かつては理系の研究職でした。普通に道を歩いていては絶対に出会えないような「抜きでた人」たちに囲まれて過ごしてきました。その環境は狙ってそこまでたどり着きました。置かれた環境で結果を出せるように努力しましたし、できることを増やしました。試行錯誤した甲斐があり私はある側面から見れば「世界最高峰」な環境にいました。未だに人類が知らないものを発見したり、生み出したりすることが当たり前な環境にいました。考え方や行動が洗練された環境に置かれていました。

 しかし、私はその道から離脱する決意をしました。道から外れた理由はここでは詳しく説明しませんが、その環境にこれ以上居続けても成長できないと見切りをつけて、積み上げてきたものを初期化することを決断したのです。

 なお研究職はなかなか厳しい世界で、医者や弁護士のように資格がありません。論文や特許、所属している環境で大いに判断されます。そのため一度その環境から抜けると戻ることは難しいです。ポストの争奪戦がありますし、ある特定の分野で深堀していくことが美学とされる価値観がそこにはあります。つまり私の決断は「白紙に戻す」ことと同意でした。

 それでも私が「無職」を選択したのは「察知できる人」になる作法に気づいたからです。理系の研究職という「抜きでた人」の中にも「察知できない人」と「察知できる人」がいます。「察知できない人」はどんなに優秀であってもどこか冷酷です。簡単に人を攻撃します。論理的に説明することで全ては解決できるとでも思っているかのようです。このような人はなぜか成果を残せません。既存の技術の下位互換というものを生み出したり、どこか決定打がありません。対して「察知できる人」がいました。「察知できる人」というのは子どものようで、いつも物腰が軽くひょうひょうとしています。周りとの関係も良好で成果も残します。これまでにない画期的な技術を見つけたり、どんどん時代を築き上げていきます。ある新しい分野を作り、先駆者となっています。

 私はかつては「察知できない人」で、不得意なことを努力してできるようにしていました。ひとつ新しい結果を得るまでに大変な努力をしました。対して同じような境遇にいるのにも関わらず、楽々と結果を出していく人がいました。それが「察知できる人」です。自分が興味があるままに進んでいくので、「頑張っている」という感覚がないのです。私は何かの目標を定めて狙って行きつこうとしますが、「察知できる人」は目標を定めません。「こうなったらいいな」という夢はありますが、最終的なゴールを決めないのです。目標を決めずに楽しそうにイキイキと過ごしていました。対する私は毎日が大変でした。常に何かに追われて、重荷があるような感覚で、動けば動くだけ疲れて無気力になっていきました。

 私は隣でイキイキとしている「察知できる人」を見て「何がこんなにも違いを生んでいるんだろう?」と思いました。そのため「察知できる人」を観察して、何が原因なのか分析し続けてきました。

 その結果わかったことは「察知できる人」もかつては「察知できない人」だったことです。しかしずっと「察知できない人」でいる人と「察知できる人」がいます。この違いは「心に不安があるかどうか」だったのです。「囚われ」「執着」をなくしたか否かだったのです。そうして「察知できない人」からできる人になるためには簡単でした。「休むこと」をすればいいのです。アタマとカラダを空っぽにして、閃く状態をつくることこそが鍵だったのです。何か努力したり、特別なことをしたのではないかという私の予想は見事に崩れ去ったのでした。

 私は「察知できる人」になる作法である「アタマとカラダを空っぽにする」ことに気づき、積み上げてきたものを白紙に戻しました。そうして「察知できない私」から「察知できる私」になっていく試行錯誤を始めたのです。私自身が「察知できる人」になろうと自分自身で実験してみているという形です。

 そんな私には気になるワードがあり、「流れ」「道理」「中庸」「コンディション」「ジェネラリスト」「ニュートラル」といった言葉です。初めに気になっている本を4冊例を上げましたが、気になるワードと関連があるなと思っています。

 私は無職であるので1日中時間があります。そのため好きなことができるわけなのですが、気づけば深堀している自分がいることに気がついたのです。たとえば私はこのところストレッチや筋トレにハマっているのですが、気づけば筋肉の名前や性質、機能やつながりなど細かいところの情報を取りにいっている自分がいることに気がついたのです。

 ここで私は立ち止まりました。私はどうしたいのだろうと。このまま掘っておけば知識をつけることに夢中になるでしょう。潜れば潜るほど新しい知識に出逢います。これまでは気づけなかったことを気づけるようになります。しかしこれがやりたいことではないのです。

 どんなに潜って知識をつけてもこれから起こり得ることを解決するかもしれないテクニックを身につけることと同じです。「察知できる人」に共通していたことは潜りすぎないことでした。常に素人でいるのです。

 理系の研究職の中でどうやって素人で居続けるんだという話ですが、つまりは固定概念を持たないということなのです。知識をつければつけるほど偏りが生じます。無意識のうちに考えが偏るのです。ある方向にしか考えられないようになるのです。それは合理的に物事を解決することになるかもしれませんが、効果はそれだけです。

 本質は知識をつけたりできることを増やすのではなく「熱量」を出せるかどうかなのです。知識は手段のひとつです。手段をたくさん得なくても、物事は進められます。物事を進めるために必要なのは興味や意欲という言葉で言い換えられる「熱量」だけなのです。

 「熱量」は誰しもが持っています。「察知できる人」というのは熱量があります。普段は目立つことなく皆んなと談笑していても、家に帰れば自分の興味があることに夢中になるような「熱量」があるのです。対して「察知できない人」というのはどこかで「熱量」を抑え込んでいます。やりたいことを我慢したり、何かを恐れたりしているのです。常に警戒しているとも言えます。その結果、恩着せがましくなったり、高圧的になったり、回避的になったり、詮索好きになったり、没頭するようになったり、衝動的になったり、楽しいことばかりを追求するようになったりと偏ったあり方となっているのです。

 私はストレッチや筋トレにハマる中で、おそらく膨大な時間があることによる不安からか、将来がどうなるか分からない不安からか、追求する方向に走っていました。知識をつけることで安心しようとしていたのです。目の前にやると楽しいことがあって、そればかりを求めるようになっていたのです。

 私は「察知できない人」が「察知できる人」になるためのメソットを普及させたいと思っています。しかしその想いが強いあまりに、エゴがあるあまりに上手くできずにいました。表現してみるとどこか固かったり、詳しすぎたりしてしまいます。初めの4冊は、当事者がどう考えて行動し、周りにどのような影響があるか具体例が示されながらまとまっている本です。キーワードだなと思っている「流れ」「道理」「中庸」というのがよく表現されていると思います。

 これは「私がどうしたいのか?」というテーマで書きました。どうしたいかと言えば「察知できない人」が「察知できる人」になるためのメソットを広く浅く具体例を持ちつつも体系的にまとめたいのです。そのためには決して深堀する必要はないのですが、ちょっと現実逃避と言わんばかりにストレッチや筋トレのことに対して探求する自分が現れました。そのため、ほどほどにしておこうという自分へのメッセージも込めたものとなりました。そんなに気負うことなく、やっていこうと思います。今の自分の能力を持っても十分に表現できることなのですから。これは万物に当たると思います。いつからでも始めてもいいのです。素人は素人なりに、自分は自分なりに表せることがあるのです。

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