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好きなことがない

好きなことが特にない。気にしなければ大した問題ではないが、ふとした瞬間に悩む。
例えば連休。自由に何をしてもいいよとなると、時間を持て余す。かと言って何もしないことはもったいないので、家の掃除やら買い物やら身近なことをする。疲れている時は、とことん寝る。休む。しかしそのうち腰が痛くなったり、目が覚めてしまったり、ずっと寝れるわけではなかったりする。

どこかにいく時は、SNSを見る。パトロールする。本当は勉強とか自分を高めることをすればいいのかもしれないと思うが、なんとなくあれこれ見るだけでおわる。なんとなく好きなジャンルはあるが、好きかと言われれば好きではない。夢中にはなれない。熱中したりすることはない。そのうち飽きる。

SNSを徘徊すると、好きなことを発信している人に溢れている。自分の忙しい生活、疲弊する生活とは全く違って、キラキラしている。苦労話や怖い話もたくさんある。あーこの人大変だなぁ。これよりはマシな生活かなと、まだ自分よりは大変な人がいると安心する。また、似たような境遇に置かれているものを見つけると、共感する。わかりみが深い。その人の投稿をあれこれ見て自分を癒す。

好きなことがないのは、これまで何かに追われてきたからである。対応してきたからである。こなしてきたからである。大変な生活をしてきた。その時その時を切り抜けて、今までやってきた。

なにごともなかったかと言えば、渦中にいた時はそれなりに大変だったが、今は過ぎ去ったことだし、まぁなにごともなかったとも言える。普通の人生、平凡な人生と語ることもできるが、自分なりに苦労した時期もあった。今も毎日何かしらやることがあり、追われている。好きなことがない。

好きなことがないのは、こうしなければならないという思い込んだところからきている。なぜ思い込んだかと言えば、周囲の人がそういった情報を多く発信していた、求められた、無理しなければならなかったところから来る。その結果、不安を感じて、思い込むに至った。

思い込むと行動が制限される。こうしなければならない、こうするべきと思い込んでいると、疲弊する。それが、一見正しい、正解、自分を保つすべだと思っていても、そう思うことは、やる気をなくす、意欲をなくす、無気力になることに繋がる。

平凡が一番だよ、と周囲が言ったりする。お金を持っていると、何かとトラブルに巻き込まれる話は聞くし、何か欲を出してやろうとすると痛い目にある。ほどほどにしとこうとブレーキをかける。好きなことがないのは、こういった思い込みの積み重ねからきている。

好きなことができるには、ゆっくりと休むことである。ゆっくり休むと、自然と意欲が湧いてくる。不安がなくなる。好きなことができる。しかし、この時に抑えておきたいことがある。それは、頭を空っぽにして、物事を大きな流れの一つと認識することである。

この物事を大きな流れとして認識するのは、リラックスしてまぁ、そんなものかなと思うことではない。根拠を積み上げて、関連付けて何かの要素は何かと関連づいていて大きなことの一つと考えることでもない。

これまでの経験での中で囚われてきた、こうするべき、ああするべきといったことを、認識することである。そして、リラックスしてぼーっとして流れに身を任せることである。論理的と感覚的の平衡が保たれた状態である。ぼーっとしてソファに身を任せている時のような、これから昼寝を始めようとしている時のような、眠り始める時のような気持ちよくなっている状態から、気持ちよくなっているということを認識して、同時に周囲の様子も察知して気付きながらも、思考が湧いてこない状態である。こうしてやろうと言ったエゴもなく、身を任せている状態を自覚ー認識すると、大きな流れの一つの中にいるような感覚を得る。安心する。大丈夫だと思う。そこには、何か理由などはない。

このように、頭の中を空っぽにすると、意欲が出てくる。これをやってみたいな、あれをやってみたいな。それは、素直な気持ちである。子供のようなピュアな気持ちである。そうして意欲が出た先に取り組んだことは、何かに囚われることなく、好きなこととなり、自発的に行動できるようになる。好きなことになる。気づいたら勝手にやっている。

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