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何かに没頭してみる

#ゼロからイチを生み出す
#不安な人が安心する人になる

これが私が最近発信していた情報だ。これら2つを成し遂げるには、共通点がある。それは頭を空っぽにすることだ。手段としては何もしないことだ。その後に前者はキーワードを3つ程度決めることをし、後者は湧いてきた意欲に従って行動するのだ。頭を空っぽにすることは便利であるのだが、実践するのはなかなか難しい。そこで今日は頭を空っぽにすることに近い効果が得られる”何かに没頭してみる”話をしていこうと思う。

私は現在、人生の夏休み中である。1日中自由で何をしていてもいい。そのような中でやる気に満ち溢れている時も、どこかだるいこともある。この記事を書いている時は、やる気に満ち溢れておらずだるくもない。落ち着いている。誰かから何かしてと頼まれたら何の抵抗もなくできる。やる気がある時は、これがやりたいから少し煩わしいなと思うところが本音だろう。だるい時は身体を動かすことすら億劫なので、めんどくさいと思う。少し動くために気力を消費する。今は気力を消費することなくフットワーク軽く何でも取り組める。

やる気に満ち溢れている時は、やり方が分かっている状態だ。取り組み始めても、何かの方向に進もうとする。それは道が見えているから進もうとする。何を表現するのか決めていない時でも、何かありそうだからと宝探しの感覚で動く。やる気に満ち溢れている時は「こうすればいい」と自分の中で手段が分かっている。そこに迷いはない。手段をすでに決めていたり、手段を決める方法が分かって、それに夢中になっている。しかし、そのうちその手段もやり尽くしてやめる。飽きるという表現が近いのかもしれないが、初めの気力はどこへやらといった形になる。

どこかだるい時は、身体に異変があり動けない状態かやり方が分かっていない状態だ。身体に異変があるケースは私の場合、肩こりや腰痛または低気圧により身体が重いことがあげられる。これらになった場合はずっと寝て休んでいるか、気合いを振り絞って何か始める。始めないとその身体の異変に気が向いていることがストレスとなって、何か着手することとなる。このように身体に不調はないが、手段が分かっていない時は、何か初めてみる。しかし、時によってはそれはあまり夢中にはなれず、疲れて終わることもある。やる気に満ち溢れている時と同様にまた白紙に戻る。

初めに書いた#ゼロからイチを生み出す、#不安な人が安心する人になる の条件は、やる気に満ち溢れていても、どこかだるくもない状態だ。つまりどちらでもないという形である。これは安心している状態に近い。満たされている状態に近い。もしどちらかに偏っていると何かを始める時に邪魔になる。何かに気が向いていて新しいことを発想するという状態でない。やりたいことに関連した発想ばかりが思い浮かぶ。だるい場合は身体の異変や特に何も考えられず、気力がないという状態である。

やる気に満ち溢れていても、どこかだるくもない状態に寄っている時にはどうすればいいか。一つは”何もしないこと”だ。しかし、これ以外にも頭を空っぽにする方法がある。それは何かに没頭して、そのことしか考えていない時間をつくることだ。あえて思考を偏らせるだけ偏らせて、飽きがくる時までやるのだ。

これまでは不安な人は何かに没頭するため、何もしないことをするといいと述べたが、そうではない。不安な人が何かに没頭しはじめたら、それをもういいや、となる時までとりあえず全勢力を注ぐのだ、という話である。上記のやる気に満ち溢れていたが飽きた、という状態まで持っていくのだ。どこかだるい場合でも、ちょっとだけ何かをしてみて、はぁ疲れた。と手が止まるまでいってみるのだ。これが頭を空っぽにした擬似的な状態だ。つまり、これまであることが気になっていた状態から他のことに気を向けた状態だ。脳が何かにしか視点がいっていなかったものを、他のものに視点を向けた形だ。

このように何かやってみて、飽きた、疲れたという手が止まった状態は、やる気に満ち溢れている時でもどこかだるい時でもない。どちらでもない状態である。まぁ何でもできるけど、今すぐにやりたいということもない状態である。この後は気が赴くがままに何かを始めるといい。ここでやりたいこともない状態なのに、どこに気が向いて取り組み始めるんだ、と思うかもしれない。しかし、何かに没頭して飽きがきた時には、これまで悩んでいたことの解を持っていることがある。

私は人生の夏休み中で、恵まれた職場に戻るか、人生の夏休みを延長するかで悩んできた。大人になりできることも増えて、衣食住も安定した。お金もある程度あり、周囲からも認められた。しかし、周囲にばかりこたえており、自分の気持ちにはこたえていなかったことが負担となった。心の奥底では不安を抱え、なんだか大変な状態に巻き込まれてきた。そこで私が知っている満たされている人の真似をして、何もしない時間をとってみたのである。人生の夏休みを選択したのである。満たされている人は、子供のように無邪気で、人の気持ちにも寄り添えて、物事を冷静に考えることができた。なぜか物腰柔らかく、好きなことに囲まれた生活をしていた。

何もしないのも大変なもので、働いていた時よりも不安に感じたり、精神的にブレた。これは自分には必要だと思ってあれこれ購入する。自分が好きそうなことをやってみるが、働いていた時のようにやってしまう。長時間かけて疲れたり、人からの評価が気になる。お金はあるが、いつかはなくなるとお金のことに執着することもあった。本当にこの生活のままで満たされた人になるのだろうかと懐疑的になることもあった。自分は浮世離れしているから、やっぱり元の生活に戻った方がいいのではないかと思うこともあった。やる気があることもあったし、何だかだるいこともあった。それでも、考えて決定するということはしなかった。なぜなら、考えて決定すると、今の自分が気が向いっていることを鍵として物事を決める。なぜか大変になる思考で物事を判断している。すると再びやる気に満ち溢れている状態かだるい状態のどちらかに振れる。満たされている人は考えて物事を決めない傾向があったので、自分もそれに従ったのだ。頭を空っぽにして解が湧いてくるまでじっと待ったのだ。私が得た解は”恵まれた職場に戻らず新しいことをしよう”ということだった。

頭を空っぽにしていない時は、今の思考の延長で物事を決める。働いていた時は型がある。勝ちパターンがある。こうするとうまくいくなと筋道を立てる。やる気に満ち溢れている時は目標を立てて行動し、だるい時はできる限り休む。仕事をしていくためのエネルギーを蓄える。私はこれまで2回転職しているが、ゼロからイチを生み出してきた。何かやり遂げたら他の環境へと移ってきた。これは自分にこたえているとも言えるが、結果的には周囲にこたえていた。置かれた環境で求められたことに対してこたえた。そこで成果を出すことに囚われていた。成果を出さなくてもいいや、といった形にはなれなかった。それは私がやればできてしまうというところも要因の一つであったと思う。働いていた時は、ゼロからイチを生み出すことが私の型であった。そのために新しい環境で周囲にこたえつつも新しいものをつくり上げるということをしたきた。働いていた時は、置かれた環境なりの分野や狙いがある。それにそうように新しいものをつくる。そのやり方は私なりの型があった。何でもできても、私はどこか負担があった。無理をしていた。働いている時に頭を空っぽにする時は、新しいものを生み出すときくらいで、自分に関してはそれができなかった。短期間空っぽにしでも、その時に置かれた環境に思考が流されてしまう。そのため休職した。

私は休職して記事を書いたり、動画を作ったり、本を書いたり、ゲームを作ったり、ゲームをやったり、絵を書いたりとあれこれやりたいことをやった。その中でもゲームと記事を書くことが、自然に私がやっていることだ。何か取り組んだことはSNSにあげるのであるが、結局は人からの評価がきてそれに気が向いてしまうため、そのようなものがない環境を好んだ。どれも集中しては疲れるの繰り返した。並行して複数のことを進める人もいるだろうが、私の場合は1つのことをやって飽きたらまた他のことをやって、再び元のことをやるというサイクルで物事を進めた。何でもある程度やると自分なりの型ができてくる。これが一番心地よいなと思える法則を自分の中につくる。自然とそうなる。そのうちその型以外の形に行くことが難しくなる。自分の中でのうまくいく、無理なくできるパターンだからだ。そうして側から見ると自由でお気楽な生活でいいねという形をとっているのであるが、当の本人は悩んでいた。型ができるとどのくらい自分が評価されるかも見える。自分にはこたえているが、生活とのバランスに悩んだ。そのような時は満たされている人の真似をした。自分が好きと感じられることをやった。何かに没頭して頭を空っぽにしている状態と同じような状態をつくった。私は私に対して抱いている向上心、いいものを表現したいという欲求、言い換えれば不安からくる思考を、偏っている思考を何か集中するものを変えたり休むことを繰り返すことでバランスを取っていった。何かに没頭することで思考の偏りをなくしていった

その結果得たのが、”恵まれた職場に戻らず新しいことをしよう”ということだった。これは色々なことをやったからこそ得た解であった。私が恵まれた職場にそこまで執着するのは、その環境は特異な能力を持つ人が身置く環境だったからだ。誰もがいけるわけではない。私の仕事は研究だ。私自身も特異な能力を持っており、周囲も非常に優秀である。収入も十分にあり、周囲とのコミュニケーションも良好で、日々生活しているだけで満たされる。研究したものは自己満足の研究ではなく、世の中に出ていく。多くの人が生活で触れる。人に対して貢献しているとも思えるし、自分のつくりだしたものが社会に貢献している様子もありありと体感できる。

なお、私はこれまで2回転職している。多くの人はひとつの組織で仕事をし続ける。研究の世界は特にそうである。私は周囲と自分のギャップに悩んだ。しかしこれまでは、ひとつ物事を成し遂げたら新しいフィールドに移り、また研究をして、ひとつ成し遂げたら今の環境に移ったという形で生きてきた。今回の決断は研究の世界ではなく、もっと全く別なことをしてみようということだ。一応研究の世界での積み上げてきたものがあるのだが、それを初期化しようということなのだ。私のこれまでの思考は置かれた環境でいかに成果を出すかに特化していた。いかにゼロからイチを生み出すかに特化してきた。研究職という誰しもがなれない世界の中でそれに満足感を得ていた。例えるならば、医者や弁護士のような難しい世界の人がその仕事を辞めてまったく異なることをすると決めるようなものである。これまで良いと思って取り組んできたことに見切りをつけて他の世界にいこうとしているのだ。

なお、この解は没頭し終わって、歯医者に行くための準備をしている時に急に思い浮かんだ。何か前触れがあったわけではない。今後のことをあれこれ考えていたわけではない。ただ、自分の特徴で言えばここ最近は、やる気に満ち溢れている時も、どこかだるいというわけでもなかった。ものすごく没頭するもの、夢中になるものがあったが、とても充実していた。(夢中になるものとは任天堂Switchの新作ゲーム、モンスターハンターストーリーズ2であった。)これまでは朝は起きれないこともあったが、このところは自然と起きられて寝付きもよかった。自分の身体の異変にも気づけた。

話は変わるが、物事には練習が必要という意見がある。研究の世界でもそれは大いにある。高みにいこうとすると途中からは雑巾掛けの世界となる。練習が必要になる。ただ、私の場合はゼロからイチにするまでを好んでいるため、練習はしない。そのようなことを訓練した時期もあったが、今はそういうのは別に良いかなと思えている。没頭して頭を空っぽにすることで、悩んでいた解を得てより満たされるようになっている



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