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不安だった私は、人の助けを借りた

私は不安だった時、どうすればわからない時、人の助けを借りた。例えば、高校受験する時。私は予備校に通っていなかった。しかし、私はある高校に入学したかった。その高校の過去問題は近所の書店や図書館にはなく、当時の私はネットに触れる機会がなかった。情報が限られていた。学校で問題を配布されるわけではなかった。そのような中で、予備校に通う友達から問題をパラパラと見せてもらっていた。パラパラと見ることでその傾向を、切り口を掴もうとした。

なお、医学部など難易度が高いところに入学した人に話をすると、教科書をやりこむだけで点数は取れると言う。これは真実である。本当にその通りである。私もその通りかなと回想することはできる。しかし、ある限られた時間の中である程度の能力を養おうとした際、難しい世界の情報に触れることで、その思考をできるようになるということがある。例えば、プロの試合を見ているだけで、その様子を少し真似できるようになる。それまでの自分の思考の連続では考えに至らなかった、物事の捉え方がわかったりする。

これと同じことが日常でも言える。例えば、初めて渋谷に行く時、初めて新幹線に乗る時、初めて一人暮らしをする時、カードを作る時、保険を検討する時、車を購入する時、ひとりで海外にいく時、初めて飛行機に乗る時。ちょっとしたイベント時には人の助けを借りた。詳しい人の話を聞いたり、そのイベントに時にはついてきてもらっていた。

ついてきてもらったことと、ひとりでやった時を回想すると、後から考えれば大差はない。何か問題があれば結局自分で対応するので、最初からひとりの方が人を当てにしないためいいとも思えるが、不安だった時、人の助けを借りた。

これが依存だという人はいるかもしれない。確かに甘えていた。しかし、その方がうまく流れるな、スムーズにいくなと思ったら、人の優しさを受け取っていた。

なぜこのタイトルの記事を書いたかと言えば、なんでもかんでも自分でやろうとしなくても大丈夫だということである。無理する必要はない。ただ、何か人を巻き込む時は、無頓着な人、安心している人がいいなとは思う。何かとお節介やきの人や心配してくれる人、応援してくれる人と過ごすのも良いが、そのような人は後からあれこれ言ってきて、行動を制限される場合がある。自分が辛く感じたり、囚われることがあるため、その事実だけを認識していればいいと思う。情報を集めればその世界の形が分かって、こうすればいいかなと道が見えたりもするが、集めすぎてこうするべき、あぁするベきと思わなくていい。

きっとうまくいく。大丈夫だ!

全く話は違うが、私は エルトン・ジョンの"Your Song"が好きである。

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