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「あお向け」と「うつ伏せ」を分けれない人

 最近は情報をつかむのに苦労しなくなったなと思います。私が子どもの頃は知識は周りの人から集めるか、テレビかラジオか図書館に行くかくらいしか手段がありませんでした。情報をつかむことについて印象深かった出来事があります。以前働いていた会社の所長がこんなことを言っていました。

 「今の人は情報をつかむ能力が低くなった。昔は情報が限られていたから、必死にその限られた情報から掴もうとした。たとえば辞書はボロボロになるまで読んで自分のものにした。今の人は大量の情報に接しすぎて情報に出会ったとしてもスルーしていて、自分のものにしていない。

 所長は当時もうすぐ70歳といったところでした。年代が離れていても私は同じ所感を持ったのです。今は情報を掴むと言えばネットがあります。動画があります。私が子どもの頃には考えられなかった量の情報に出会うことができます。

ところで、情報が多いと課題を解決できているのでしょうか?私に関して言えば、肩こりと冷え性とお通じの悪さに悩んでいました。仕事をすれば肩が凝って時には頭痛がし、冬は寒くて靴下の裏にホッカイロを貼らないとやってられませんでした。常にお通じが悪く、もはやこんなもんだと思っていました。心のどこかでこの課題は一生解決できないと思っていました。むしろ課題とも自分の中では認識しておらず、それらがあることが当たり前でした。

 私は仕事を辞めて自分のペースで過ごせるようになりました。やらなければならないことがなくなると正直悩みます。私は元から一人で何か作業することが好きだったので、自分は大丈夫だろうと高を括っていたのですが、大丈夫ではありませんでした。時間を持て余して何かしないと落ち着かなくなりゲームに没頭して疲れていました。ゲームを楽しむと言うよりももっと強くなろうと反復して同じことをし、いわゆる”作業”をしていました。ゲームを楽しむと言うよりも、時間を潰すために、不安をなくすために、達成感を感じるためにゲームをしていました。

仕事のようなやらなければならないことがなくなり、私は不安に駆られました。予想していた自分と実際の自分にはギャップがありました。それは心の底で不安を感じていたからです。この不安は自分は大丈夫と思えていない不安です。何かをできるようになれなければいけない、今のままではいけない、そのままではいけない・・・そのような自分に対する不安が私にとっては無意味なものに没頭する形となりました。

 なぜ自分が不安を感じていると気づいたかと言えば、先ほどのゲームをある種、義務感のようにしている自分がいることに気づいたからです。この感覚は見始めたドラマが面白いと感じなくても、せっかく見始めたのだから最後まで見ようと思う感覚と一緒です。自分が面白いと感じなければ、さっさと見切りをつけて他の興味が赴くものを始めればいいのですがそれができないのです。疲れて無気力である時も同じような脳の働きをします。つまり受動的になるのです。自分から何か選択しようという気にならないのです。そうして私がゲームをダラダラとやるのと同じような過ごし方をします。

 私はこうして受動的になっている、作業をしている自分に気がつきました。最初はそれに罪悪感を覚えました。「今日も”良い感じ”ではない過ごし方をしてしまった。」という形にです。別に受動的になっててもいいと思えない自分がいました。そんな時もあると捉えて切り替えられない生活リズムになっていました。

このような受動的なとき、どこか無気力なとき、何をしたらいいのか分からない時は情報を掴む力が弱くなります。たとえばゲームで強くなりたいと思っても、何が原因で強くなれないのかが分かりません。それはゲームにどんな要素があって何が鍵になっているかを把握できていないからです。たとえば育成ゲームでは強くなるためには育成するキャラクタのパラメータを把握する必要があります。力の強さとか素早さとかかもしれません。またそれらのパラメータが何で伸びるのかを捉える必要があります。これを”なんとなく”で掴んでいる人は強くなれません。感覚で掴んでいるといっても過言ではありません。

 私はこのところストレッチをすることがマイブームです。そのため先日ストレッチ屋さんに行ってきました。ジムやマッサージ屋さんとは異なる”ストレッチを専門にしている所”です。ストレッチ屋さんに入ると、マッサージ屋さんにあるような少し小高い寝っ転がれる台が置いてあります。ストレッチ屋さんでは台の上でうつ伏せになったり、あお向けになったりして、トレーナーさんにストレッチをサポートしてもらいます。身体のケアをしてもらうのです。

 そのストレッチ屋さんで「あお向けになって下さい」や「うつ伏せになって下さい」と言われます。初めて言われる時、私は「あお向け」と「うつ伏せ」という言葉を聞いた時、天井を向いて寝そべるのか、台の方を向いて寝そべるのか悩みました。これは私の日常生活の中で”あお向け”や”うつ伏せ”という言葉がまったくなかったためです。子どもの頃に「右」と「左」と言われてどちらか悩むのと同じ感覚でしょうか。まだその言葉に慣れていないので、どちらを指すのか迷うのです。

 そうして一瞬悩んだことをトレーナーさんに話すと、そのような人はよくいるとのことでした。そうして次のアドバイスをくれました。

「”あお向け”は”あお”と”向け”に分けて、後ろの”向け”だけを聞けばいいんだよ。”うつ伏せ”も同じで”うつ”と”伏せ”に分けて”伏せ”だけを聞けばいいんだ。”向け”と”伏せ”なら”向け”が天井の方を見て寝そべることで、”伏せ”が床の方を見て寝そべることってわかるでしょ!?

 私はこのアドバイスを受けてあお向けとうつ伏せを全く悩まなくなりました。ただトレーナーさんは続けます。

この話をしても”あお向け”と”うつ伏せ”がわからない人がいるんだよ。つまり”あお向け”という言葉で覚えてしまってるのと感覚的だから”あお”と”向け”を分けて捉えられないんだ。反対に論理的な人は”あお”と”向け”を分けて捉えられるんだよね」

 感覚的な人の捉え方と論理的な人の捉え方を聞いて、私は思い当たる話がありました。大人になってから第二外国語を話せるようになる人とそうではならない人です。日本でも日本にずっと住んでいるのに、日本語をカタコトにしか話せない人を見たことはないでしょうか?反対に数年しか日本にいないのに、流暢に話せる人もいます。これに通じる話で、アメリカにいる友達がある日こんなことを言っていました。

「アメリカに長年いても英語を話せるようになる人とならない人がいるんだよね」

 ”あお向け”と”うつ伏せ”がわからない人と大人になってから第二外国語を話せるようになれる人となれない人は同じところが原因になっていると私は思います。それは「論理的に物事を捉えられるか」です。私がゲームを作業のようにダラダラとやり続けるのも突き詰めれば同じです。見始めた面白くないドラマに見切りをつけずに最後まで見るのも同じです。物事を感覚的に捉えていることが原因となっています。ゲームやドラマが受動的になるのはもっと根本の原因があって心に不安があるからです。自分が今のままで大丈夫と思えていないのです。その結果、日常生活で人の顔色を伺ってすり減ってきました。自分の感情には蓋をして気づかないように生きてきました。そうして無気力になるのです。受動的になるのです。感覚的となり論理的に物事が捉えられなく至るわけです。

 心の底に不安があると論理的に情報を掴むことが難しくなります。不安だからこそ、不安をかき消すためのことに執着しますが、それではいっこうに不安はなくなりません。むしろその執着が自分をさらに疲れさせていきます。生きる気力をなくしていきます。

 今の世の中は情報が多くなりました。調べればすぐに関連する情報を得られるようになりました。しかし課題を解決できる人は少ないのではないでしょうか。心の底の不安が意欲をなくします。自分から何かしようという気になりません。気力もないけど居ても立っても居られない感覚をどうしようもできなくて、何かに没頭したりする人はいるはずです。私はゲームに没頭していました。その自己完結した世界に安心していました。しかし私の人生は変わりません。どんどん心が渇いていきます。ゲームをやればやるほど、本当は楽しいかもしれないのに、罪悪感に苛まれていくのです。心に不安があると課題を意識することなく、情報を掴むことなく時間だけが過ぎていくのです。

 昔は今よりも情報が限られていました。それでもその限られた情報から何かを掴もうとする人がいました。それは不安で現状を変えなければと躍起になっている人か、安心して興味があるからその情報を掴んだかのどちらかです。前者は論理的に物事を捉えられません。ものすごく意識すればできるのかもしれませんが、自然に過ごしていると不安な人は心の中の「自分は大丈夫ではない」と捉えている上で成り立った固定概念の元に行動します。行動に狙いがあったり制限があります。対して興味で情報を掴める安心している人は物事を論理的に捉えます。感覚的に物事を捉えられますが、論理的にも理解することができます。

 情報が多くても課題は解決できません。それは心の底の不安が無気力や今の状態を維持しようという思考に変わるからです。安全に従うようになるからです。現状と理想のギャップから問題を発見し、それを解決する手段にまで落とし込めません。課題として捉えるに至りません。

仮に無気力で悩んだり何か衝動的な気持ちに駆られたり、ダラダラと何かを続けてしまう習性があったとしても大丈夫です。それはこれまでに避けがたい困難を経験してきたからです。冷蔵庫をあけただけで「あなたが好きだと思って買ってきたのよ、感謝して」と言われて育ったのです。感謝を強要されてきました。他にも「勉強できて良いわね」と勉強できないことを良しとされませんでした。風邪をひいた時に「風邪をひいてはならない」と言われた人です。生きている中で風邪はひきます。怪我だってします。勉強ができないことだってあります。しかしそれを受け入れられなかったのです。「熱で苦しいでしょ?ゆっくり休んで」と声をかけられなかった人です。

 避けがたい困難を経験した人はゆっくり休むことです。こんな自分が休んで良いのかと思わなくても大丈夫です。これまで避けがたい困難を経験してきたのです。それはリードに繋がれ続けた犬のような状態です。犬は最初はリードが嫌だからと取ることを試みました。しかしどんなにもがいてもリードを取ることができません。飼い主に媚びてみても、リードは外されません。むしろどんどんリードはきつくなっていきます。自分の態度をどんなに変えても、気分屋であったり頑固な飼い主の前では無意味でした。むしろどんどん自分の思い通りにしようと働きかけられてきました。飼い主だけいい気持ちになっていました。時には無視されます。時には構われます。そのような環境に疲れ果てたのです。どんなにもがいてもリードは外れないのだと諦めます。無気力になります。これが避けがたい困難を経験した人の状態です。周りに自分は今のままで大丈夫というメッセージを受け取れずに今まで生きてきたので、疲れ果ててるのです。親しみを周りと共有できませんでした。「おいしいね」「おいしいね」と言い合いたかっただけなのに、それが叶いませんでした。

 ゆっくり休むと意欲が湧いてきます。それはエゴのない意欲です。興味のままに何か取り組んでみようとする意欲です。その意欲に従っているだけで、自発的になります。情報を掴めるようになります。論理的に考えられるようになります。そうしていつの間にか、かつては憧れたキラキラした自分になっています。その姿は疲れ果てた今の自分からは想像もできない姿ですが、ちゃんと「自分らしく」生きられています。そこには「自分は大丈夫」と思えている自分が現れます。以前のように恩着せがましくしてきたり、無視してきたり、攻撃してきたりする人が現れても、適切な距離を取って行動できるようになります。相手に合わせようとする、何者かになろうとする自分はいなくなっています。どのような人にも対等に接することができる自分が現れます。


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