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どこに出かけても、何をしても

どこに出かけても、何をしても満たされない人がいる。ただ、家にただいてもそれよりも満たされないと感じる。何かしたい衝動に駆られる。外に出る。

歩き回って、人に会って、話して、買い物してとしているうちに、時間がすぎる。帰宅する。今日買ったものを並べるが、それを再び手に取ることは少ない。

普段は何かに追われている。勉強や仕事、家事など終わりのないと感じるものをする。やらなければ、どこかで苦労するので、取り組む。周囲も同じようにこなしているので、自分もする。別に好きではないし、できる限りやりたくない。

一方で、どこかイキイキ暮らしている人がいる。会社員でもなぜかイキイキしていて、何事も意欲的に取り組む人がいる。周囲との関係も良好である。会社員でなくとも、自分でサロンを始める人がいる。バックパッカーとして生活する人がいる。どこに出かけても、何をしても満たされないと感じている人は、自分とは全く違う人だと思う。能力が違う、環境が違う。何もかもが違う。自分とは縁遠い存在だ。しかし、そんな人になりたいという憧れ、羨ましさも募る。自分もそうやってイキイキしたい。

どこに出かけても、何をしても満たされない人が、無理してえいやと思い立って、その人の真似をしてみても、以前よりも状態は悪くなる。なぜか困難が多くなる。どこまでやっても満たされない。あの人はあんなにイキイキしていたのに、自分は違ったんだと諦める。また色のない世界に戻る。やる気が出なくなる。疲れる。打ちひしがられる。

イキイキしている人とどこに出かけても、何をしても満たされない人は、根っこが違う。根っことは囚われだ。前者は囚われがなく、後者は囚われがある。後者は人にこたえてきた人だ。不安を感じている人だ。困難を乗り越えてきた人だ。囚われがある人に囲まれてきた人だ。前者は自分にこたえた人だ。不安を感じていても、自分は大丈夫と思うに至った。無理をしない人だ。囚われがある人に距離をとった人だ。

囚われをなくすことは、どこかに出かけなくていい。何もしなくていい。今が勉強の片手間で休んだ時だったとしても、電車で移動中であったとしても、寝る前のちょっとしたネットの徘徊中であったとしても、囚われをなくすことはできる。頭を空っぽにすることだ。ぼーっとすることだ。そうすると自分は大丈夫だという感覚が得られる。何か根拠を積み重ねて大丈夫と思うことでもなく、感情的にならないようにすることでもない。次々と思考が湧いてくるが、周囲の音や環境が気になるだろうがそれでいい。そういった中でも自分は大丈夫だと思える。現に自分は大丈夫なのだから。

しかし、最初のうちは全くそう思えない。足が冷えていることに気づく。寒い。お腹がすいた。周囲が臭い。匂いが気になるといった具合に、集中しなくなった瞬間、嫌悪感や無視できない思いに駆られる。そういった場合は、それらを全て満たしてから、人が周囲にあまりいない環境などで、ぼーっとすることを試みてみることである。頭を空っぽにすることで、自分は大丈夫という感覚が得られるという事実を知っているだけで、そうなることは知らない時よりもずっと早くなる。慣れてくると、それはいつでもできるようになるし、どんな時も自分は大丈夫と思える。例え、人から罵倒されていようと、肉体的にきつい環境にいようと、無条件にそう思える。

なお、私は理系であるので、感覚に訴えた事象をわかりにくいなと思う。分からないことは、もっと条件などを説明してほしいと思う。私はどこに出かけても、何をしても満たされなかった一人だった。その気持ちに共感できる。当時の私が今の私の記事を読んでも、正直胡散臭いと思うかもしれない。ただ、現に何か自分とは違い、世の中には幸せそうな人、満たされている人がいることは理解している。しかし、何が原因で私はこんなに満たされていないのか分からない。何をすればいいのか分からない。そんな中でやる気が出なく、不調が身体に出るようになった。そうなって、本当にどうにかしたいが、どうにもできなくて路頭に迷っていた。本当に打ちひしがられていた。ここで私が語っていることは極めて抽象的でわかりにくいことは理解している。個人的な感覚で非常にわかりにくい。しかし、当時の私がより満たされる形があることの気づきにつながるように、自分は大丈夫、という感覚を理解し、どこに出かけても、何をしても満たされない人が満たされるように、私は日々言葉を紡いでいる。


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