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安心している人の中でも

 安心している人は挑戦と休息を繰り返す。安心している人は現状維持と休息を繰り返してす、おばあちゃんのような人とでも言えるだろうか。その生活には自身のこれまでの経験から取り揃えた一軍や思い出の品に囲まれている。日々を丁寧に紡ぐ。

 このあり方は安心している人とも言えるが熱量が足りない。心がワクワクする子供のような気持ちを抱いている人は隠居生活は選ばない。時としてたまに大きな表現をした後にはおばあちゃんのような生活を選ぶが、主とした生活では挑戦を続けている。安心している人は挑戦を続ける。様々なものに出会いたい、知りたい、経験したいといった好奇心、興味もありつつ挑戦と休息を繰り返すのが安心している人である

 挑戦し休息を繰り返す安心している人は子供のようである。自分の心のトキメキを知っている。心はワクワクする鮮度の高い状態とそうでない状態がある。初めに一見挑戦し休息を繰り返す安心している人に見えるが、子供のようでない人を紹介する。

 心の鮮度が低い状態とはある程度、体力的、精神的にキツい環境でもぶれない状態のことである。これはいわゆる体育会系と言われる環境では子供のようでない人となる

 外から見ればその人は元気そうであるが、内面では思考を停止している。もちろん、本人は自分の意思で行動していると思っているので、考えていないなどと思っていない。このから元気とも言える状態は強い言葉で言えば洗脳されている状態である。ある状態を良いと信じる。ある状態以外のものは”良くないもの”として認識するのが大きな特徴である。

 そのあり方の特徴は差別的である。本人にやる気があっても、心の鮮度が高くないと自分の心のトキメキを知らない。自分が何が好きか嫌いかわからない。これは子供のようなあり方ではない。

 心の鮮度が高い状態の人はジャブを打つのが得意な人である。つまり、試してみることが得意だ。例えば、机の上には普段使うモノを置いた方が集中するのか、何もない方がいいと思えるのかを試したりする。机の上の様は不安な人、安心している人で傾向はある。

 一方不安な人は机の上や引き出しの中が整理されていない、モノが置きっぱなしになる傾向が強い。これは自分にとって必要なものの取捨分別ができなかったり、何かをコレクションして自分の人生には無意味なことに精を出す。直接関係のないことに精を出すことで、現実とのバランスを取っている。

 ここでは多くを語らないが、何かの収集癖がある人は本能的な囚われがある人の行動パターンである。お金をたくさん持っていたり、社会的ステータスがある不安な人が持つ傾向である。

 話は戻るが心の鮮度が高い人は机まわりがスッキリしている人とごちゃごちゃしている状態の人どちらもいる。ごちゃごちゃした状態になるのは、その方が様々な要素が混ざり合い発想しやすいからといった理由であることが多い。整理されているのは、その方が発想しやすかったと新たな気付きを得るための本人なりの試行錯誤の結果である

 心の鮮度が高い状態は、感情的になるのとは異なる。例えば嫌なことがあったとお酒を飲んだり、好きな音楽を爆音で聞いて発散することとは異なる。好きな人への溢れる気持ちを紙に書き出したり、SNSで発信すること、相手へ小まめに連絡を取ったり、連絡しすぎかなと制限することとも異なる。心が子供のようでときめいたり、ワクワクする状態は過剰になることがない。本人にとってはかけがえのないもので、失うと悲しい。しかし、突き詰めれば、それはあってもなくても構わない。それに依存していない。

 安心している人はトリコになっている。惹きつけられているので、失うと悲しいが、他のもので同じような心の状態をつくることができる。移り変わりを受け入れる。常に状態を維持しようとしない。安心している人は流れを受け入れる

 挑戦し休息を繰り返す安心している人は子供のような状態とは、目的を決めない。何か狙わない。過去を顧みたりしない。将来に対してあれこれと策を立てたりしない。何かを収集したり、気持ちがコロコロと変わったり、何かの方法が正しいと決めつけることもしない。本能的、感情的、論理的な囚われがない。その取り組んでいることに夢中になっている人のことである。この状態は次の記事の突出している人でも似たような状態になれるが、これともまた少し異なる。

 挑戦し休息を繰り返す安心している人は子供のような状態になるための条件は身体を充分に休めることである。何か試験などに追われたり、仕事などに追われたりしない状態である。毎日の子供へのご飯作り、家事のようなやらなければならないことがない状態である。これらの”するべきこと”、”しなければならないこと”と認識していることがなくなると、意欲が湧いてくる。その意欲に従っているとなれる。周囲からはお前ってバカだよなと軽視されるような人がその状態へとなる。より満たされる状態へとなる。なぜか時間にもゆとりがあり、好きなことができ、周囲との関係も良好で、お金も稼げる状態となる。本人の感想としては本当に楽に稼げる。これまでどうしてあんなにも何か立派なものになろうとしたり、頑張ったりしたのだろうと思うほどにである。

 しかし、現代に生きていると”するべきこと”、”しなければならないこと”がなくなる生活など自分には来ないな、夢想家の理想論だなと捉えるかもしれない。確かに私が”するべきこと”、”しなければならないこと”に囲まれていた時に、何かに追われるような状態にするなと言われたら怒ると思う。それは現実的になり得ないためだ。そのような当時の私に今の安心している人となった私が言葉をかけるならば、立ち止まることだ。明日は何時に起きないといけない、これをやらないといけないと焦る気持ちはわかるが、まずは深呼吸することである。そうして、部屋の片付けでもする。少しずつでもジャブを打ってみる。試してみる。そうしてあれこれやってみて、自分の中で一番しっくりくる、他のものと比べることができないなと感じるものを見つけることである。

 人によっては、折り紙かもしれない。散歩かもしれない。演奏することかもしれない。人と話すことかもしれない。そのたくさんの試行錯誤、比較の中で得た夢中になれることをやってみることである。いくらやっても見つからないな、ジャブを打つことに疲れたなと思ったら、子供の頃にやっていたことを思い出してやってみることである。できれば幼稚園くらいがいい。親に何かああしろ、こうしろと言われなかったあの頃に熱中していたことである。それはお絵かきかもしれないし、友達と秘密基地を作ることかもしれない。珍しいものを拾ってくることかもしれないし、恐竜博士、電車博士になっていたかもしれない。その熱中していたことを起点として、今の自分が楽しめることをやってみることである。すると、挑戦し休息を繰り返す安心している人は子供のような人になれる。何者にもなることができる。

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