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昔からの友達に会って

タイトルの通り、昔からの友達に会ってきた。お互いに歳を重ね、守るものが多くなったなと思う。

友達に休職していることを話し、最近は執筆していると伝えた。すると、とどまることの知らない話が続いた。退職せずに時短なり産休や育休を取ったりして、働き続けた方がいいという主張だった。その業界にいるからこそ得られる情報がある。行ける世界があると。本を書くことは片手間でできる。超ホワイトな環境を辞めてまでやることなのかと。会社としてはダイバシティを推進しているから、むしろ育休を取るのは推進されているでしょうと。過保護なほど会社は守り、もはや有給とかを使っている人が優遇される世界に住んでいるでしょうと。

友達の言うことは正しい。利益主義、合理主義な形だ。私は思う。以前の友達は全然違った。990円の航空券を見つけてはポチって海外飛び回る生活を送っていた。流行りものは意地でも触れたくなく、ギラギラしていた。みんなが選択するから自分はこっちをあえて選択する。そんな性格だった。以前でも制度を使って何が悪いという性格だった。しかし、そこには余白があった。なんか分からないけど、やってみればいいんじゃん?面白そうだからと笑う姿があった。今は異なる。言葉を挟む間もなく、どれだけお金が大切かを語る。続いて友達は語る。和気あいあいしている人はいつかは衰退する。居心地の良さをとると、結局は仕事がうまくまわらなくて、その環境もなくなる。性格は良いけど仕事はできない人という形になるよと。

なお、友達の結婚相手は条件を好むタイプだ。友達の学歴や社会的ステータス、年収。そういったところに惹かれて結婚している。本人も語っていた。うちのパートナーは自分のことが好きなわけではない。自分の条件が好きなのだと。それを認めた上でも、まぁ、気は合うし、うまくやっていきましょうという所だ。かつての私はパートナーが友達を好いたのではなく、条件を好いたところに切なさを覚えた。久々に会った所感はパートナーの色に染まったなというところだった。お金がなくても幸せな人はいるけど、お金があるとお金の悩みは少なくともなくなると話す。

仕事を辞めようとしてるいると話した時、このようにお金の話や条件の話しか出てこなかった。私が本を書いてると話だけど、それが〇〇賞を狙うからと自分を削って書くなら分かるけど、そういうのを狙わずブログなのは仕事をして続けながらでもできるのではと話す。友達の話すことには一理ある。私もそのへんは考えた。考えて考えて悩み続けて、結果、サラリーマンを辞めようと思ったのだ。

なお、私は賞を取ろうとか何か狙おうとは思わない。何かを目指さずとも、自分が良いと思えたものを追求する。この形で良いと思っている。これがもしかしたら現実逃避しているのか?楽な選択をしているだけたのかと悩む。悩むけれども、自分が求める形と異なるこれまでのサラリーマンの世界のような評価の世界に舞い戻っても窮屈なだけだ。私はより満たされるために、自分に挑戦したいと思っている。それが如何に良い条件を蹴ろうとも。これは不安な人のあり方なのかななどとも悩む。ただ、1つ言えることは私の心の満足度は以前よりも高くなっている。誰かの基準に付け合わせるのではなく、自分で自分の基準をつくってそれを超えていく、新しい認知をしていく。私が興味があると思えることにこたえて行っている。

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