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知識を集めて分析する人

幼い頃から、図鑑や本を読むことが好きな人がいる。物事の仕組みを理解することが好きで、分類し特徴を見出す。

私は30代のリケジョであるが、理系の世界にはこのタイプの人が非常に多い。知識を蓄えることを好んで、判断力があろうとする。観察能力に長けている。

しかし、こういった人が拗らせる姿もみてきた。知識にこだわりすぎて正論をかざしたり、順応しようとしない。これまで自分が形成した型に固執する。どこか他人行儀で、何事もいっぽ引いている。愛想がなく、どこかいつも不機嫌である。自分のことにしか関心がなく、人に干渉しない。結果、孤独を強めていたり、何か物事を進めるにしてもひとりでするので大変だ。風当たりが強い。

人の囚われは、3種類に分かれると思う。本能的か感情的か論理的かである。知識を集めて分析する人は論理的なところに囚われがある。

世の中には、囚われがない人がいる。自分のことだけではなく、周囲の人にも関心があり、適度にかかわる。日々ワクワクしながら何かに取り組み、知識に固執したりすることがない。その考えは柔軟で、新しい発見、気付きを積み重ねて新たな分野をつくったりする。人の気持ちにも寄り添え、知識を集めて分析する人のように、論理的思考が得意で、物事を俯瞰的に捉えられる。こういった人は本当に頭の良い人、統合的な人である。

ここで主張したいことは、知識を集めて分析することがいい悪いではない。本当に頭の良い人と紹介したが、頭の良し悪しを悪いと言っているのではない。知識を求めて分析する人の特徴を持つが、何か生きづらいな、大変だな、隣の人はなんだかイキイキしているなぁと感じる場合、今の時点からより満たされる状態があるということを伝えたい。

なぜ、知識を集めて分析するようになったかと言えば、これまで置かれてきた環境、自分の元々の性格でその傾向が強くなったり、その傾向となるに至った。地道なこともコツコツでき、それでこれまでは成果をあげてきた。自分を守れてきた。しかし、どこか息がつまるような形になる。

よりワクワクしたり、誰かが自分のことをサポートするようになるには、囚われをなくすことである。囚われをなくすには、頭を空っぽにすることである。ゆっくりと休むことである。頭を空っぽにすると、自分は大丈夫という感覚が得られる。物事を俯瞰して捉え、整理し、体系化させ、論理立てれば安心する、大丈夫、うまくいくし、これまでもうまくいってきたと思うかもしれない。しかし、戦い疲れた、孤独だ、やる気が出ないとなっている場合は、囚われがある。不安を感じている。安心できていない。安心することは、理詰めで解を導き出すことではない。理由がなくても、大丈夫と思えることはできる。この状態となれば感じ方が違う。満たされる。瞑想やマインドフルネスは、頭を空っぽにする手段の一つである。

自分の世界をつくって入り込んでも、どこか満たされない。好きなことをしているのに満たされない。そう感じている人は、心のどこかで不安を感じているからである。周囲の人から、あれこれ求められ、対応しなければいけなかった。自分の身を守るためには、うまくやる必要があった。人に対して無頓着となれば、変に期待することもないし、傷つくこともなかった。しかし、あれこれ物事を俯瞰して、追求して、思っていることがあると思うと。満足しない。

それは、囚われが行動を思考を制限しているからである。


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