儀式にのっとる必要がある

最近ふと思うことがある。人は儀式にのっとる必要があるのではないか、と。

ここで言う儀式はその人がこれをやったらなんとなく良くなるのではないかと思っていることだ。例えそれが人からは合理的ではないと言われたとしても、無駄だと言われても本人の中ではその形式に基づく必要がある。

本人は不安な人だ。何かを得たいと思って叶わなかったり、なんだか大変な環境に置かれてきた人だ。そのような人は、自分が納得するために儀式に、形式にのっとる必要がある。

本人だって物事の理屈、理論はよく理解している。その意味はわかっている。しかし、自分で試してみたいのだ。世の中ではそれがどんなに無駄だと思っても、それを試そうと思う。とりあえずやってみようと思う。

それは気づくために必要なことだ。自分が体感するために必要なことだ。変化するために必要なことだ。最終的には周囲が言うように、合理的な方、効率のいい方を選択するようになるかもしれない。しかし、その無駄がなければ自分は永遠にその無駄のところが毎回気になって先に進ことができなかった。自分のために遠回りが必要なのだ。

気づくためには、結局自分で試してみるしかないという話だ。人にあれこれ言われても自分を信じればいいという話だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?