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快楽を追求すると満足するか

自分が楽しいと思ったこと、気持ちの良いと思ったことを追求すること。これは一見かなり満足しそうであるが、満足しない。それでは、嫌なことをするべきなのかと言えばそうでもないと私は思う。その経緯を話していく。

楽しいと思ったこと、気持ちの良いことと思えることは2つの状態がある。何か不安にかられてやって気持ちの良い状態と、安心してした楽しいと思えること気持ちいいと思える状態のことである。前者はどこか依存的となり、本人はどこまでやっても満足しない。後者はやってもやらなくても、どちらでもいいくらいで、気晴らし程度で無理のないものである。

前者の場合は、まぁ予想がつくと思う。美味しいものをたくさん食べたり、呑んだり、タバコを吸ったり、1日中パチンコをしても満たされない。やりきれない不安やモヤモヤを解消するためにしている。別にこういったことが良いことである、悪いことであると言っているわけではない。こういった人は日々大変な生活をしている。仕事をしておらず、自由な時間がたくさんあったとしても、お金がたくさんあって、多くの人に評価されていてもである。側から見ればなんの問題があるんだと思うかもしれないが、当の本人たちは大変な日々を過ごしている。攻撃されたり、強要されたりする。時には無視されて大変失礼な時だってある。何をしても続かないし、好きなこともない。やる気も出ない。しかし、日々生きているのも辛い。本当に大変である。

対して、後者の安心してやる楽しいこと、気持ちの良いことは、ちょっとした慎ましいことである。暑い中歩いて帰ってきて、涼むことかもしれないし、ソファーに横になることかもしれない。フカフカなお布団に潜り込んだり、あいさつを返したことかもしれない。友達と集まってワケもなくワイワイすることかもしれないし、ひとり時間のお気に入りの飲み物を飲むことかもしれない。それは大した刺激はないが、満足する。満たされる。本人は満たされるとすら思っていないことも多い。極めて自然にやっている。自然すぎて気づかない。

快楽を追求すること、前者の場合は、心に不安を感じている場合は、没頭する。寝食を忘れて取り組む。身体が疲れたというサインを出していても気づかない。これを集中している、いいことなんだ、この先にもっと満足するに違いないと思う。しかし、より刺激を大きないと満足しないようになり、どこまでいっても満足しない。乾く。そのうち偏りの出る形となって、何もかもうまくいかなくなる。疲れる。やる気がなくなる。無気力になる。

快楽を追求すること、後者の場合は、安心している場合は、熱中する。休息とのバランスが取れている。先程書いた、ちょっとしたことを追求するとは、どういうことなんだと思うかもしれない。暑い中歩いて帰ってきて涼むことに追求するもなにもない。クールダウンするだけであると。ちょっとしたことを追求するとは、それ以上も以下もない。しかし、気持ちいい、楽しいと思うことは、閃きを運んでくる。この閃きは、これまで考えてきたこと、悩んできたこと、ちょっと気になってたことを解決するようなアイディア、イメージだったりする。その瞬間は突然訪れる。閃こうと思って閃いていたわけではない。ただ、リラックスして、頭をぼーっとさせていると、勝手に湧いてくる。
そんな湧いてきた意欲、アイディアをやってみることで、最終的には満足する。この意欲、やってみよう、こうしてみようと何か狙ったり、ああしてやろう、こうしてやろうと囚われがない思いは、自分を当初は全く予想していなかったところまで連れて行く。それは、人と比べることでもないし、自分の過去を振り返ることでもない。将来に対してあれこれ回想してみることでもない。なにかしようと思わなくても、気張らなくても大丈夫になる。結果として、時間もお金も人との良好な関係も満足も手に入る。

生活の中で嫌なことに囲まれているかもしれない。やらなければならないことに囲まれていることだらけかもしれない。しかし、それらを嫌なこととを、今のその状態でも、嫌と感じなくすることはできる。その嫌で嫌で仕方なかったものを、尊いと感じられるようになる。それは、充分に休息して、ぼーっとすることだ。何をすることもなく、頭と身体を空っぽにすることである。

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