私が尊敬する最高のビジネスパーソン
突然ですがちょっと重い話から・・
2021年5月16日に大好きなおばあさんが97歳で亡くなりました。母から聞いたのは午前11時くらいにトイレに入ってしばらくして出てこないので見に行ったらもう息絶えていたということです。恐らく心臓が止まったのだと思います。私は両親とおばあさんが暮らしている母屋の隣に住んでいるので、すぐに駆けつけましたが遅かったです。
とはいえ、体が弱っていて老衰に近いこと、前日の15日におばあさんは自身の実家のお墓参りに両親同伴で行っている-このお墓参りが心のつっかえであったと同時に1番したかったことであり、肩の荷が降りたとでもいうのか、それで安心して休むことができたのかなと思っています。15日には私も会話しているんです。「近々おばあさんの妹にも会いに行きたいね」「寒くない?」という問いかけに「会いたいね」「さみぃ」と答えてくれていたんです。「昔あれこれしてくれたんだけど覚えている?」「いや、覚えてねぇ」これは、歳だから忘れているんだろうなぁ笑 しかし、頭は全くしっかりとしていたんです。それこそ、私の子ども(おばあさんからしたらひ孫)とも遊んでいましたし。
それもあって、突然だったから受け入れ難かったんです。
とりわけ、身近な誰かが亡くなるというのは受け止めるまで時間がかかりますし、近くにずっと住んでいたから尚更です。
おばあさんの遺影は私の結婚式の時に撮った集合写真から。おばあさんが92歳の頃です。多分、緊張してるんだなぁというのが、身内の私からは伝わってくるんですよね。
今は時間が経ち気持ちの整理も出来てきました。おばあさんに対する想い、何か形に残したい、とりわけ自分はおばあさんから何を学んだのかということをnoteに書き記すことが、おばあさんへの感謝の形だと思っております。
おばあさんは生涯現役
私が生まれた時から、なのですが、おばあさんと私が中学3年生の時に亡くなったおじいさんと共に専業農家としてずっと畑仕事-ビニールハウスによる施設農業でトマトの栽培をしてました。小さい頃はよく手伝ったなぁなんて。
おじいさんが亡くなってからはずっと、私のうちの畑を守る感じで畑仕事をしていました。おばあさんが作る野菜は美味しいし、作り方が上手で、かなりのノウハウを蓄積していたんだと思います。今は父が畑で色々と野菜を作っていますが、おばあさんのようにはいかないと言っていました。おばあさんの野菜は職場の人や友達にもお裾分けしていただき、そのことをおばあさんに伝えるととても喜んでくれていたのをすごく覚えています。「枝豆あるから持っていけ!」「スイカはいらねぇか?」と私も嬉しいしみんなの喜びの声を聞くとどんどん頑張っていい野菜を作っていたんです。私が結婚した直後は少し離れたところに暮らしていたのですが、実家に帰るたびに野菜をくれたりしました。本当に嬉しかった。
実際、亡くなる5ヶ月前くらいまで畑に出かけていました。それでも、畑までは片道500メートル弱、毎日手押し車を押して歩いて行ってました。家族が心配になるもんで、みんなに畑に行くのを止められていた位です。自分の中で、おばあさんは「生涯現役」を貫くんだろうなと思いました。むしろ的中ですよね。
体は弱りながらも感謝する心を持つ
母親がおばあさんに日記をつけることを勧めていたようで2013年くらいに始めたようです。おばあさんが亡くなってから、その日記を妹と共に見たんです。自分や妹が帰省する日には、「楽しみ」と記してあったり、従姉妹がおばあさんに会いにくる日ももちろん記してありました。2017年頃からあるフレーズが目立つようになってきたのです。
「体が痛い」
90歳中盤、それは無理もないとは思いますが、その頃から「体が痛い」なんて日記を見て初めて知ったんです。本当、弱音を吐かないんです。自分が孫だからというのもあるのでしょうが、自分に対しては前向きな言葉や感謝の言葉が多かったんですよね。実際、心臓も弱り始めて、体力がもたなかったり、家の中で転んでひっくり返ったり。。怪我をしても、暑くても寒くても、体が痛くても畑に出る、まさに生涯現役。農家としてのプロ根性を見せられ、圧巻の一言です。
おばあさんが亡くなった後に妹と話す中で、
おばあさんが嫁いでから舅や姑(私から見たらひいじいちゃんひいばあちゃん)にえらいことをされたり、まぁ、良い仕打ちではなかったみたい、というのを教えてもらいました。昭和初期という時代背景、戦後直後も影響したのかもしれないです。おばあさんと私の妹、女性だからこそ話せることだとは思いますが、初めて知ったことなのでビックリしています。
妹はおばあさんから、「みんながいてくれることが幸せ。家族がいてくれることが幸せ」ということを聞いていたようで、嫁いでからの経験が構築した価値観なんだろうなぁと思いつつ、当たり前に感謝するべきことは学ばなければと思いました。
自分ができた唯一の恩返し
おばあさんは根っからの総入れ歯ユーザーでした。90歳にもなろうかという時、入れ歯が合わず、食事が思うようにできなかったり時期がありました。歯科医院で入れ歯を調整しても、痛くて食事ができない。私は独身で実家で暮らしていたので目に見てわかるように、おばあさんはげっそりと痩せていってました。すごくすごく心配だったんです。
このままでは、おばあさんが危ないと思い、差し歯や入れ歯が合わず食事ができないとき、入れ歯に生体シリコンを敷いた入れ歯、コンフォートっていうのにしてみたら?と母親、おばあさんに伝えてみました。たまたま、成田デンタルという歯科技工商社に勤めていたのがよかったんだと思います。
コンフォートをやっている歯科さんに母親がおばあさんを連れて行き、コンフォート入れ歯を使って食事をすると、お肉やタコといった固いものまで食べれるようになり、おばあさんの顔もふっくらとして、すごく安心しました。恐らく、痛いままの入れ歯を使っていたら97歳まで生きていなかったと思います。なので、元気で大好きな畑仕事に行けていたのは入れ歯のおかげというのもあったと勝手に思っています。(自己満足でごめんなさい)そして、私が「おばあさん、入れ歯の調子はどうだい?」と聞くのが日課になっていたんです笑
これが、私ができた唯一の恩返しではないかと思っています。
大好きな仕事をすると笑顔がこぼれる
妹が専門学校に通っていた時、おばあさんの仕事の様子をポラロイドカメラで撮り本にしたんです。
「ばあば、愛してるよ。」
しかしながら、妹はこれをおばあさんに渡すことができず…
それでも素敵な、おばあさんの魅力がつまった1冊なのでシェアさせてください。(妹にはとっても感謝しております)
そして、本の最後のおばあさんのショット
本当に仕事が楽しいと自然と笑顔がこぼれるんですよね。
そして、親戚から頂いたおばあさん用の新しい冷蔵庫をいじっている様子の写真
身内だからなのかもしれませんが、こんな素敵な笑顔、そうそうないですよね!
生き生きしているというか、仕事をしていてワクワクするから自然と笑顔になる
最初の重い話の時のおばあさんの遺影
よりも、冷蔵庫をいじっているおばあさんの写真の方が本来の生き生きしたおばあさんだから、差し替えたいと思ったりもしちゃうんですが笑
比較すると全然違いますよね笑
ビジネスパーソンとして畑仕事に生涯現役を貫いて活躍したおばあさん、仕事が楽しいとこんなにも自然な笑顔がこぼれている
私自身、尊敬する最高のビジネスパーソンであり、大好きなおばあさん。
さいごに
大好きなおばあさんが亡くなって3ヵ月
ようやく心の整理がついて、おばあさんと向き合い、一つの形にすることができたと思っています。(後半大分、妹の恩恵を受けましたが)
身近な人が突然いなくなることがある。
いなくなって「もっと話しておけばよかった」というのはよくある話ですが、本当にそう思います。
忘れてはならないから、私はnoteに残しました。
そして、最も身近な両親、妻、こどもともしっかり向き合い話すことも大事、後悔しないために。
おばあさんのビジネスパーソンとしてのマインドしっかり引き継いでいきたいと思います。
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