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『長いお別れ』を観て考えた事

どうも、マックにアイスコーヒーのLが存在することを最近知った佐藤ダインです。

YouTuberの末端の末端として思うことは「これをやれば月収○○万円!!」とか「芸能人の○○が逮捕!!」とかの動画よりも、日々淡々と面白い動画を上げ続けるガーリィレコードチャンネルはめちゃくちゃ健全だしカッコいいと思う。何より、本人達が楽しそうなのが良い。僕は最近また休みがちだけど…。また上げたくなった時に上げますね。


『長いお別れ』を観て考えた事

映画『長いお別れ』を観て来ました。この作品はずっと楽しみにしていました。もう感覚がおっさんなのか、アベンジャーズであるとかキングダムよりもワクワクしてしまうのです。同じ監督の前作である『湯を沸かすほどの熱い愛』は図らずも映画館で号泣しました。「泣くことを目的に映画館に行くのは、抜くために風俗に行っているようなもの」と誰かが言ってたような言ってなかったような気がするけど、確かにそうかもしれません。僕は久々に映画館で抜きたかったのです。

東京に住んでいたときは立川の映画館で平日1000円で観れたのに、今となっては1800円がデフォです。しかも、今住んでいる所の最寄りの映画館では『長いお別れ』を上映していないことが発覚し、仕方なく東京で観ることにしました。ここでさらなる衝撃が!

何と一般料金が1900円になっていたのですッ!!

この100円の差はデカいです。1800円だったら「高いけどまぁいっか…」と自分を誤魔化せますが、1900円となるとすぐそこに2000円の足音が聞こえて来ます。こうなってくるともう「まぁいっか…」では済ませられないほどの葛藤が生まれるのです。しかしながら、その葛藤を描いていては話が進まないので割愛します。

この映画の内容を簡単に説明しますと、ある家族の父親が認知症を発症し、そんな父親にとまどいながらも妻や娘達が懸命に支える様子を描いた7年間の愛の物語です。

観る前に少しだけレビューを見たのですが、「リアルじゃない」とか「綺麗に描かれすぎている」という意見もあったようです。

この作品がリアルかリアルじゃないかは僕は判断できません。なぜなら、周りに認知症の人がいないし、これまでにも会ったことが無いからです。なので、イメージでしか知りません。なので、その判断は置いておくとして、「娯楽作品が現実に即していない問題」、言い換えると「娯楽作品が現実に与える影響についてどう考えるか問題」については一時期すごく悩みました。


<現実と違うものをどう受け止めるか>

刑事物の作品を作るとして犯人を追いつめた末に銃撃戦があったとします。その時に「いや、現実ではそんなに銃は使わないからこのシーンは止めよう」という話になるかもしれないし、「でも銃撃戦はあった方が面白いから入れよう」という話になるかもしれません。結果として、銃撃戦のシーンが採用されたとして、その作品を見た人は「刑事ってこんなにバンバン銃使うんだ!」というイメージを持つかもしれません(実際にどれくらい銃を使用するかは僕は知りません。あくまで例として考えて頂ければと思います)。それ(現実との認識のズレ)を良しとするかどうかという話です。

少し前の映画で『セッション』という作品があります。ドラマーを目指す主人公とその主人公を徹底的にシゴきまくる指導者の物語です。題材をドラムにしたスポ根物と言ってもいいかもしれません。僕はこの映画が大好きです。罵倒され続け、憎しみを溜め込み、それでもドラムを続け、ラストに復讐を遂げる。映画の終わり方の気持ち良さは異常です。

その一方で、映画評論家の町山さんとジャズ・ミュージシャンの菊地成孔さんの論争もちょっとした話題になりました。菊地さんの主張は「念のため誤解なきよう。これはマンガです」と言ったものでした。ここでの「マンガ」は、デフォルメされたキャラクターや物語を採用したメディアという意味合いで使われていることと思います。

僕はジャズの世界に明るくないので、映画を観た時は「脚色はあるんだろうけど、こんな世界もあるんだな~」ぐらいに呑気に考えていました。しかしながら、その世界に近い人からしたら「実際はこうじゃない」とか「侮辱している」といった意見もあるのかもしれません。ただ、いち視聴者としてはそこはあまり重要じゃなくて、主人公と指導者の異常な関係性であったり、ドラムに悪魔的に取り憑かれた主人公に面白さを感じており、リアルかどうかというのは優先度が低く感じました。

となるとやはり、現実とのギャップは重要では無いということになるでしょうか?では、そもそも作り手側は何を考えて作品を作っているのか考えてみたいと思います。


<制作者の意図を考える>

『スターウォーズ』は僕は好きなのですが、違和感を感じるところとして、「何で主人公側は顔モロ出しなのに敵側はドロイド(ロボット)だったり顔が隠れてたり(ストーム・トルーパーとか)するの?」ってことです。

そこに制作者の何かしらの意図を感じます。おそらくこうじゃないでしょうか?

主人公側は顔や表情が見えた方が感情移入しやすいし、倒した時に生身の人間感があると観る側に罪悪感や不快感が生まれてしまうから、なるべくドロイドや無機質なものを敵として設定しよう。

つまりは、受け手側のストレスを軽減し、より楽しんでもらうための配慮と言えそうです。


<暴力について>

『スターウォーズ』もそうですが、物語上に設定された問題を解決する手段としてしばしば暴力が採用されます。ここで疑問が浮かんできます。

暴力で解決するってどうなの…?
話し合いで解決出来ないの…?

それって…

「悪者には暴力を使っていいんだ」っていう考えにならない…?

一般的に考えれば暴力はしてはいけないことのはずです。でもそれが多くの映画で採用されている。その意図はどこにあるのでしょうか?

おそらく…

そっちの方が面白いから。

なんかバカっぽいけど、多分そうだと思います。リアルに考えてウルトラマンが毎回怪獣と和解して話し合いで解決していたら全く面白く無いと思います。エンタメとして考えた場合、悪とされる存在を徹底的に悪として描き、主人公を徹底的に正義として描く。その上で、正義が悪を貫く時にカタルシスが生まれる。絶対そっちの方が面白いです。

じゃあ暴力そのものを肯定していたり、悪者がいたらブン殴ろうぜ!ってことでは無いような気がします。おそらくそれは甘味料のようなもので本質は他にありそうです。

敵や怪獣を自分の中に潜む弱い心や負の感情に置き換えてみたらどうでしょうか?人間は誰しも弱い部分があって、それと日々闘っています。それは「アイツが憎くてたまらない」と言ったレベルのものから「今日は二度寝しちゃおう」と言ったレベルのものまで様々だと思います。そういった弱い心を敵と考えます。そして、主人公は自分です。つまりは、自分の中の弱い心と戦おうよ!というメッセージが本質だとすれば、なんだかスッキリします。


つらつらと書いて来ましたが、何を言いたいかと言いますと…

娯楽作品の場合、まず「面白いかどうか」が重要になる。それを実現する手段として、現実的では無かったり、主人公側だけに感情移入させたり、暴力が使用されることもある。そしてその面白さの裏側には隠れたメッセージがあるかもしれないよ(ない場合もあるし、僕はそれも良いと思う)、ということでしょうか。


前置き(?)がめちゃくちゃ長くなりましたが、やっと本編の感想です(笑)ネタバレを含みますので、ご注意願います。

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