見出し画像

私の古い古い想像力

『ゼロ年代の想像力』(宇野常寛著)では

*90年代以降、徹底したポストモダン状況が日本にも訪れた。
*ポストモダンとは、「モノはあっても物語(=生きる意味、信じられる価値)を社会が示してくれない世界」
*その結果として、95年のオウム事件があり、奇しくも同年『新世紀エヴァンゲリオン』の放映 がはじまる。

というのが話の端緒で、物語、特にマンガを例に話が進んでいきます。

しかるに。

そもそも私の好きなアーティストって、ポストモダンの先駆者みたいな人なんです。

ジョルジュ・バタイユの『マネ論』は、読んでて滅茶苦茶興奮しました。
いわく「巧妙に画面から意味だけが抜き取られている」

神話画、歴史画の構図をとって、当時のパリの人々を描いたのは、マネだけではないでしょうが、

目の描き方なんかに確信犯的な悪意を感じるのはマネだけだし
だからこそジェフ・クーンズはマネが大好きなのだと思います。(ジェフ・クーンズは悪趣味でかわいいものが好き)

そしてその確信犯的悪意こそ徹底したポストモダン=
「何の物語的価値体系は信じない、ただ目の錯覚に基づいた絵の具の扱い方と目の前の現実があるだけ」
の態度のような気がします。

でも、だから、マネよりゴッホの方が人気があるんですよね…なんていうか、ゴッホには全然悪意がないんだもん。神とか運命とか狂気とか愛とか、すごく古典的な物語要素が彼の人生にはあって、それでいて絵はヨーロッパ社会の規範から完全に逸脱していて…

あーーー話がまとまらないーー。

働き始めて時間がないんだよー。

つまり、いまや ゼロ年代も越えて10年代なので、ポストモダン→引きこもり→自分個人の小さな物語→大きな物語の再構築
なんですが、

私に未来に向けて物語を再構築する頭なんてないわーい\(^o^)/

プラス、『女の子を殺さないために』にて、「物語は基本的に男の子が上昇し、女の子が下降するという形式」と。

私の好きな『春琴抄』でさえ、そうですもん。

で、最近は逆に男の子が死んじゃうパターンもありますけど、それは単純に裏返しにした、ということで。

だから、なんか暗い気持ちになっちゃうんで、ダメなのかなぁ。
だから犯罪ドラマの方が、チーム、とか仲間、の方が信じられるんですよね。

とにかく、私は、ライ麦畑、と赤頭巾ちゃん気をつけて、を読むべきだ、と思いました。

でも、まさか、やっぱり、その二作も死を向かい側にしてのお話になりますかね…?。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?