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そんな中、母が胃癌になりました。

だいすけわたなべです。
D.W.ニコルズは現体制での活動を2021年いっぱいで終了します。
来年以降はボクが看板を持ち、歌い続けます。
ボクがニコルズになります。
CDも作るだろうし、LIVEもやると思います。
誰か(現メンバー含む)に手伝ってもらったり、ひとりでやったり。
ツアー初日がいきなり延期になってしまいましたが
とにかく年内を笑顔で走り抜けたいと思います。
16年分の感謝を伝えるために。
発表してから全国いろんなラジオで
ニコルズのことを話してくれたり曲をかけてくれたり
本当にありがたいです。
ファンのみんなにもとても感謝しています。
申し訳ない気持ちもあるけど
とにかくこれは前向きな決断なので
これからも楽しんでもらえるように
全力でやっていきますので
引き続きいっしょに歩いて行けたらうれしいです。
よろしくお願いします。
ずっと考えて話し合ってきたので
報告できて少しホッとしました。
変な話ですが。

そんな中、母が胃癌になりました。
約2ヶ月前のことです。
入院して手術をして昨日退院しました。
一行で書けばそんな感じですが
もし、同じ境遇の人がたまたまこれを読んで
少しでも希望を持って前向きになってくれたらいいなとおもうので
ここに記しておこうとおもいます。
色々と大切なことを自分自身が忘れないためにも。

ボクの実家は神奈川県の葉山町。
「出身はどこ?」と聞かれたら
「葉山」と答える。
「神奈川」と答えることはほぼない。
いやな感じなのはわかっているけど
それくらい生まれた街が好きだし誇りに思っている。
最近できた「逗子・葉山駅」は腑に落ちない。
いやそこ逗子だから!葉山じゃないから!と思うけど
誰に言ったらいいかわからないしもう遅いので諦める。
そのうち慣れるだろうし。
ボクが暮らしている東京と神奈川は隣だけど
こういう状況なのでなかなか帰りづらい。
もう何ヶ月も葉山に帰っていなかったことと
色々考えすぎて頭が爆発しそうになったので
ちょっとだけ実家に帰ることにした。

4月7日 久しぶりに葉山の空気を吸ってボーッと海を眺めて
家族に少し会えて生き返った。ニコルズのことを家族に話した。
「そうか。変化は必要だからな」と親父は言った。

大学生になるまで葉山にいた。
大学は日芸だったから初めての一人暮らしは埼玉だった。
そのあとは江古田で卒業後は高円寺で
そこからはその辺りを転々としている。
「出身は?」と聞かれると
「日芸」と答える。
「日本大学」と答えることはほぼない。
それくらい通った大学が好きだし誇りに思っている。
いやな感じなのはわかっている。
そういえば所沢校舎はもうないし
江古田校舎は建て替えたから
もうボクの思い出の校舎はどこにもない。
売れたらカメラクルーを従えて
「懐かしいなぁ」とか言いながら
母校を訪ねて在校生にキャーキャー言われる予定だったんだけどな。
ま、いいか。無いものは仕方ない。(いや、人気ではなく母校ね)
逗子駅の改札を出て葉山まで歩くと
心がほぐれていくのがわかる。
トンネルを抜けて葉山に入ると臨戦態勢のスイッチが切れる。
そしてまた東京の戻るとスイッチを入れて
そうやってがんばってきた。

生き返った矢先、どん底に叩き落とされた。

4月12日 母が貧血で倒れた。かかりつけの病院に行ったら
「大きい病院ですぐに検査してください。紹介状を書きます」と言われたと
電話の向こうの母は弱々しい声を振り絞るように話した。

ここ最近、血便が出ていたらしい。かなり黒かったらしい。
そのことを主治医に伝えたら検査するように言われたのだ。
色々調べてみたり、知り合いづてにお医者さんの意見を聞いてみた。
赤い血便は大腸か小腸で出血している可能性があり
黒い血便は十二指腸か胃か食道だそう。
自覚症状がないならあんまり心配ないんじゃないかと。
腫瘍があっても悪性じゃない可能性もあると。
安心させるためかもしれないけど、先生の言葉で少しホッとした。
電話で母にそのことを伝えると、母も少し安心した様子だった。
「とにかく検査してみないとね。大丈夫大丈夫」と励ました。

4月14日 検査
4月15日 胃に腫瘍が見つかる。渋谷で配信用LIVE映像を収録。

「やっぱりあんまりよくないって、、、」と泣きながら母が電話をしてきた。
病院の中から携帯電話でかけてきた。
「そうか」としか言えない自分が情けなかった。
母の携帯はいわゆるガラケーでほとんど使っていない。
ヘルパーの仕事をずっとしているのでそのために持っている。
「母 携帯」という文字がiPhoneの画面に現れるとボクはいつも身構える。
良い知らせだったことがほとんどないからだ。
なんとか元気づけようと明るい声を出すようにがんばったけど
iPhoneを持つ手は震えていた。
腫瘍の一部を採取したらしく、その検査結果を待つそう。
夜、親父からLINEがきた。(親父はLINE使い)
現状の報告だった。最後に「薬を飲んで様子を見ることに成りました」とあった。
しばらく色んな報告は親父からのLINEになりそうだ。
デジタルに強い父でよかった。頼りになる。

胃癌だとしても一部を取り除けば大丈夫だろう。
他に転移していなければ手術でなんとかなるだろう。
そんな風に前向きに考えるくらいしかボクにできることはなかった。

4月22日 大腸の検査。とてもきれいだったみたいでひと安心。
大腸への転移はないということだ。
「腸に入った空気がおならになって、ぷ〜〜ーてね。自分で笑ってました」と
親父からのLINE。笑った。おならの伸ばし方が独特で思わず頭の中で再生してみたりした。

4月24日 GO OUT CAMPでLIVE。音楽で誰かの役に立てることが支えになる。

4月28日 親父 誕生日 79歳(母はひとつ年下)
検査の報告などのLINEのやり取りの中、おめでとうと送った。
仕事をバリバリしていた現役時代は無我夢中だったから
あまり覚えていないものですね。と返事がきた。
最近、過去を振り返って小さな後悔を見つけてはポロッと吐き出すことが
多い気がする。人生の晩年とはそんな感じなのだろうか。
親父とのやりとりが増えたから、いろんな発見もある。
「俳句の4月号の編集も終わりました!」と趣味の方の報告も。
この人は長生きしそうだなぁとおもった。
検査検査の毎日でビールも飲めず不安な時間に
押しつぶされそうになっているであろう母を想い息が苦しくなった。

4月29日 徳島の新しい乗り物のために作った「DMVのうた」を親父に送った。
(DMVはデュアルモードヴィークルの略)
「母さんも聞きました!DMV=大丈夫 みんな 無事でバンバンザ!」とLINE。
Vは難しかったよね。がんばったね。バンバンザ!

4月30日 母 胃癌 ステージ2〜3   

結果を聞きに行っているはずなのに連絡がなく
いやな予感がしたけど実家に電話してみた。
弱々しい声で母が出た。
「もしもし。大丈夫か?」と言うと
「電話する気が起きなくてね」と言った後に少し黙ってから
「胃を全部取らなくちゃダメだってさ」と言った。
「悪いところが見つかったなら、全部取るしかない!取っちゃえば大丈夫だから!」と言いながら、なんて無責任なことを言ってるんだろう、と思った。
「でもこんなに怖いことが自分でよかったよ」と母は言った。
こんな時にも母は、母なのだ。

5月1日 母 やさしい手、退職
FM横浜のイベントでみなとみらいでLIVE。近くまで来てるのにな、と思った。

もうすぐ母の日だ。
街に出て花屋に行くことにした。
毎年、何かしら送っているけど
ここ数年はガジュマルの木とか
オーソドックスじゃない物を送っている。
ベランダと庭の緑の仲間が増えたらいいな、と。
店先の鉢植えが目に入った。
緑の葉がかわいい。
オリーブの木、と書いてある。結構高い。
他のにしようかなと思いつつ、説明の書いてある札を読むと
「5年で実がなります」と書いてあった。
ボクは鉢を持ってレジに向かった。
「日にち指定はできませんがよろしいですか?」と言われ
「あ、いいですいいです」と言った。
10日が母の日で今日は3日だから金曜日あたりに届くだろう、と思った。

5月4日 名古屋で弾き語りのLIVE。

5月5日 オリーブの木、実家に届く。

入院の日が決まるまで不安だろうから、毎日電話した。
その日は親父から「今、届きました。欲しくても中々買えなかったので!ととても
喜んでました。有り難う。」と写真といっしょにLINEが来ていたので
「あ、オリーブの木届いたって?ちょっと早すぎたね。日にち指定できなかったから」と言うと
「ありがとうございます。高くて買えなかったからね」と言った。
「そうか、よかったよかった!」と言うと
「手紙を読んで母は泣きました」と言いながら、母の声が震えた。
「そうか!よかったよかった!じゃまた電話するね、おやすみ!」と言って
ボクは慌てて電話を切った。そして泣いた。うまく息ができないくらい泣いた。
多分みんな心のどこかで、もしかしたら最悪のこともあるんじゃないかと
おびえているのだ。ボクも、こわくて仕方がない。母はもっと、こわいだろう。
手紙には、こう書いた。
「いつもありがとう。5年で実がなるらしいよ。
元気になったらビールで乾杯しよう! 大祐」

5月7日 入院の日が20日に決まる。従姉妹のマユミちゃんが
「20日は私と王貞治さんの誕生日だよ!だから大丈夫!」と母に電話してきたらしい。王貞治さんは胃がんを克服して今もお元気だ。
そういう前向きな情報をとにかくボクらは集めているのだ。

5月8日 誕生日 41歳になる。

誕生日の当日は浜松で生誕祭。図々しいのはわかっている。
でも毎年何かをやりたくなるのだ。
今年は、昔の写真を見ながら台本は書かずにたっぷりトーク、と
たっぷり弾き語り、をやりたかった。
当日に向けた準備で写真を選びながら何度か手が止まり
何度も涙がこぼれた。
親父が写真を撮ってくれていたのでアルバム何冊も
幼少期の写真がある。一人暮らしをする時にその中の何冊かを持って
家を出たので引越しのたびにいっしょに移動している。
母は写真に写るのが嫌いだから、母の写真は少ない。
小学生のボクが誕生日に、念願の「スイカ丸ごとひとつ」をもらい
有頂天な写真がある。そこには母の姉のバァバもいて妹のユキと犬のモモもいる。
みんな笑っている。とても好きな写真。
後ろに飾ってあるビールのポスターの明石家さんまも笑っていた。

5月9日 親父も母も生誕祭を配信で観たらしい。
下ネタとか言わなくてよかった。

インターネットで調べて、新橋に行くことにした。
目指すは烏森神社。癌封じで有名らしい。
御祈祷してもらえる癌封じのお守りを求めてお参りするのだ。
なんでも、池江璃花子選手や、堀ちえみさんも参拝したそうだ。
烏森口ってそういうことか、と思いながら新橋の駅から歩いて行くと
いきなり烏森神社が現れた。
御祈祷は後日してくれるそう。お守りは今日持って帰ることができる。
箱に入っていて見るからにご利益がありそうだ。
「よし、これで大丈夫だ」と思いながら
駅の近くの富士そばでカツ丼を食べていたら
涙が止まらなくなった。
富士そばが壁に向かって食べるスタイルでよかった。

5月17日 逗子のスタジオから配信LIVE

ボクにはLIVEという大義名分がある。
LIVEのついでに実家に寄った。
母にお守りを渡し説明すると、笑顔になった。
「こんなこと、思いつきもしなかったよ」と喜んでくれた。
親父も喜んで「こりゃいいや」と言った。
精一杯のスキンシップでボクは母の背中をポンポンと叩き
「がんばってね」と言った。

5月19日 入院前日

ミハエルさんにネームリーディングをしてもらった。
すごく元気になった。背中を押してもらった。
母のことも「大丈夫」と言ってくれた。
「すごいね、お母さん。生きる力にあふれてる」と。
ミハエルさんは星野源さんと仲が良いらしく
さっきから電話が鳴り止まない、と言っていた。
「おめでとう!よかったね!」と
いろんな人から連絡が来ているらしい。
「いや、それオレのは関係ないし!知らんがな!」と思ったけど
「すごいですね!」と言った。
誰かが言うことに疑問を抱いても「はいはい」と聞くのが
あなたのよくないところ。と言われたばかりだった。
明治神宮前から電車に乗る前に地上で電話をした。
さっき聞いたことを母に伝えた。声は明るかった。
もうやるしかないと思っているんだろう。
こういう風に見えないバリアみたいな物で
守ってあげるくらいしかボクにできることはない。

5月20日 母 入院

5月21日 母 手術

毎週やっているラジオのレギュラー番組のために静岡へ。
朝9時には手術室に入り、4時間か5時間くらいはかかるらしい。
新幹線に乗りながら「今頃手術してるのか」と想像した。
待ってる親父も心配だろうな。とにかく成功を祈るしかない。
バンドのメンバーやスタッフ、ラジオのチームのみんなも優しい。
まわりの人の優しさに救われてばかりだ。
14時、いつものように生放送が始まる。
なっちゃんと喋っている時はスイッチが入ってるから平気だ。
でもちょっとでも気を抜くと悪いイメージが頭の中に湧いてくる。
もう6時間も経ってるのに親父から連絡がない。
もしかしたら、今ボクがラジオの生放送中だから気を使って
終わる頃に連絡しようとしてるんじゃないか、、、。とか
そんな変なことまで考えていたらiPhoneが振るえた。親父から電話だ。
CMに入ったのでスタジオから出て折り返した。
手術は成功して、さっき麻酔から覚めて話もできたそうだ。
連絡が遅れたのは、親父の待つ部屋にもなかなか迎えが来なかったかららしい。
親父も気が気じゃなかっただろう。とにかくよかった。
「よかったよかった」と言った自分の声が震えていたので
「じゃ、ラジオだから、また」と電話を切った。
ちょうどそこにトイレに行くためにスタジオ出るなっちゃんが通った。
「手術、成功したって」と涙目がバレないように気をつけながら報告した。

5月22日 銀行から何かのご案内の葉書が来ていると親父からLINE。
捨てていいです、と返信。

5月24日 母 集中治療室から4人部屋に戻る
夜、ファンクラブのみんなに向けて発表。

「母さんからSMSで、今部屋にもどったよ、と連絡があった」と
親父からLINEがきた。目を疑った。SMS?ショートメール?
「よかった!母さんショートメールなんてできるんだね笑」と返すと
「入院前に特訓したんだよ!」とコジマだよ!みたいなテンションの返事がきた。
ちょっと感動した。たぶん親父と母ちゃんの初めてのメールなんじゃないだろうか。
手術後、下血(お尻からの血)があり原因を調べるために3日も集中治療室にいたのだ。もう少し調べるらしい。

5月25日 オフィシャルから発表。夜、ファンクラブに配信で報告。
一日中緊張していた。イナズマ戦隊のドラムの久保さんとkainatsuから
「がんばってね!」とLINE。こんな人になりたいと思った。
母 大腸は異常なし 談話室まで歩けたと電話があったそう。

5月26日 母 お昼ご飯をゆっくり30分かけて食べられたそう。
下血の原因は腸を繋いだ時のカスみたいなものが下剤で出たんじゃないかと。
「胃を切った人のおいしい回復レシピ」と言う本をネットで買って送った。

5月27日 朝も昼も食べ、どこも異常なし。先生の往診で
「シャワーで傷口をきれいに洗いなさい」と言われたそう。
痛そう。
帝王切開でボクと妹を産んでくれた母さんはお腹を切るのはおそらく3回目だ。
考えていたら、自分は何もしてないのに、痛い時の顔になっていた。

「母 携帯」着信だ。
「もしもし!母ちゃん大丈夫か?」
久しぶりに声を聞いて本当に手術が成功したんだとやっと実感が湧いて安心した。
「集中治療室はうるさくて眠れなかったよ。流石に今回はもうダメかとおもったよ」と言いながら力なく笑った。本当によかった。烏森神社にお礼のお参りをしないと。

5月29日 血液検査も問題なし 31日に退院が決まる。

5月31日 母 退院
ニコルズの写真撮影のため葉山へ。

撮影よりも少し早く、みんなより先に、葉山へ帰った。
逗子の商店街の花屋で買った花を持って家に入ると
母さんはベッドで寝ていた。
もっと痩せちゃってるかとおもったけど、それほどでもなく安心した。
声をかけると目を覚ました。
「よかったね。おかえり」
「まさか帰って来られるとは思わなかったよ。もうダメかとおもったからね」
と言った。本当にそうおもったんだろう。
三途の川の近くを彷徨ったのかもしれない。
ベッドから起き上がって歩いたり
ヨーグルトをゆっくり食べているのを見て
すごいなぁとおもった。ミハエルさんの言った通りだ。
生きる力がすごいんだ。
ユキが入院する時に持たせた音楽プレーヤーには
ニコルズと徳永英明とBEGINを入れたらしい。
母さんが好きなやつ、らしい。
「切り替え方が分からなくて、ずっとニコルズだったよ」と
文句を言っていた。なんだか申し訳ない気持ちになった。
妹からは「布団乾燥機、本気でダニをやっつけたいならアレじゃダメだよ」と
なぜかダメ出しをされた。
「いや、今のオレの生きがいはダニをやっつけて吸い取ることなんだよ!
めちゃくちゃ気に入ってるんだからほっとけや!」とおもったけど
「あー、そうなんだ」と言った。
こういうとこか、とミハエルさんの顔が浮かんだ。
なぜか家の中に大量発生した蟻を追いかけて
「おりゃー!」と叫んでいるサク(甥っ子)を見て
母さんはお腹を押さえながら笑った。
「笑うと痛いんだからやめろ〜」と言いながら。
束の間のお見舞いをすませ、そろそろ行こう思い
庭にいる親父に声をかけると
「入院中から親父もゆっくり噛むようにして食事してるんだ」と言った。
実はボクもだった。ボクは早食いなので気をつけようとおもって。
親父は違う理由だった。
「今頃母さんもこんな風に食べてるのかなぁってね」
妹の結婚式で親戚に促されて無理やり腕を組まされて
親父と母さんが写真を撮っているのを見てボクは号泣した。
その日一番泣いた。なんとなくその時のことを思い出した。

「今日はもうダメかもね」
海で写真を撮ろうとしたら雨雲が現れた。
あきらめずに待っていたら、雲の切れ間から光が差した。
間一髪で、おもっていたような写真が撮れた。
こんな風に今までも何度も乗り越えてきたんだ。
そしてきっと、これからもそうやってボクらは生きていくんだ。




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