子どもとの面会日のこと


息子(小学高学年)はスイミングプールのレッスン中。最近スイミングをやめた小学低学年の娘(花子・仮名)と一緒にショッピングセンターのゲームコーナーに、娘の要望で立ち寄った。
娘は自分のお小遣いあるから、それを使うと言う。
そうか、しっかりママからお小遣いをもらっているんだね、と内心、安心する。私はお小遣いをもらえない子ども時代を過ごした(経済的理由でない)けれど、自分の選択で自由に使えるお金があることは大切なことだと思う。
自分で選択できることがあるという経験は、そこに自分自身の世界が作られ、選択する能力と、成し遂げる能力を持っているということを自覚できることにつながると思う。

1回200円のクレーンゲームをするという。目指すは大きなぬいぐるみ。1回目取れない、2回目取れない。残念!
パパに1回やらせてみて、と私が自分のお金でやってみるも取れない。
更に娘がお小遣いを出したり、私がお金を出してあげたりして、娘が数回トライするも取れない。
あと1回だけと言われてトライするも…、結果は残念。娘はどうしても納得できず、本当に最後だからともう1回懇願する。
さっき最後って言ったでしょーと、私が言っても、本当に最後だからと、もう1回!とせがむ。

少し迷ったけれど、本当に最後だよと、200円を私の財布から出す。
この100円玉2枚が私の財布からクレーンゲームの料金箱に移動することで、たまにしか会えない娘が満たされるなら安いものだと思う。
それは、今ここの満足であるけれど、自分の欲求に親が応えてくれたという幼少期の大きな経験となり、娘がこの先長い人生を生きていく上での根幹の一つになると勝手に思っている。

最後のトライも虚しく、ぬいぐるみをかすかに動かすだけに終わった。もう一回と更に娘がせがむが、もちろんそれには応えない。ここで応えてはいけないと思う。
もう私がお金を出す選択をしないことは、おそらく娘もわかっているはず。
もうお兄ちゃんのプールが終わるから迎えに行こう、と私が言っても、ふてくされてゲームコーナーから動こうとしない。
取れなくて、悔しくて残念で悲しくて腹立たしい娘の気持ち。

時間がないから迎えに行こうよと、私が歩き出すもなかなかついてこない。
私が店の階段を下りても、娘は遠くのゲームコーナーからこちらを見ている。
私がさらに距離を取り、見えない位置まで移動すると、娘はギリギリ見える位置まで移動する。
そうやって距離をとりながらも、少しずつ店を出る。

横断歩道を青信号で渡って、やっと近くに来た娘に言う。
「花ちゃんは何も悪いことをしていないし、パパも悪いことをしていないんだよ。だから気分を悪くしなくても大丈夫なんだよ。
一生懸命やったけど、ぬいぐるみを取れなかったのは残念だったね。でも誰も悪いことなんてしてないんだよ。怒ったりする必要はないんだよ」

小学生にもなれば大人と同じように会話もできるから、大人と違うのは体が小さいだけだと思いがちだけど、
自分の感情に整理をつけたり、やるべきことに対しやりたくない気持ちが勝り、できなかったりと、心そのものも未成熟で、発達途中だと思う。


子どもの失敗や間違い、ふてくされていることに対して、親が怒ったり、ましてや否定や責めることはやめた方がいいと思っている。
子どものうちに自分の感情を整理できるようにすること、自分の気持ちを自分で立て直していくことができるようにすること、
子どもの間違いや失敗に対し、事実だけを指摘して、どうすればうまくできるかを一緒に考えることを、親や周りの大人が直接間接に教え、サポートすることが大切だと思う。

それを親にしてもらったかどうかは、その後の人生に本当に大きく影響すると思う。
自分の機嫌を自分でとれるようにサポートしていくのが親としての役割の一つだと思っている。
そして、親がそれをできるかどうかは、親自身がそのことを自覚しているかとともに、親に余裕がないと難しいとも思う。
親が正しい知識を知ることと、子どもに対しそうやって接することができるように親をサポートすることが大切だと思う。
(ほとんどの人は他人がどう育てられたかは意識しないし、そこに違いがあるという認識すらないと思う。「大人」「親」という一言で全て一直線で同じになってしまう。親から子への虐待もそこに目を向けないと、理解も減らすこともできないと思う。)


その後、娘はすぐに機嫌を取り直し、いつも通りの口調で別の話題を話してきた。

自分の母親だったらなんて言っただろうと考えなくても、すぐに浮かんでくる。
「何ふてくされているの、自分でとれなかっただでしょ。勝手にしなさい」
その前にゲームコーナーになんて立ち寄ることも許されず、ゲームへお金を出してくれることもなかったな。
父親は、同じ屋根の下に住んでいたことは確かだけれど…。私にとっては無の存在。

ゲームコーナーはトラウマの一つで、近寄るのも中に入るのも、自覚できない不快感情が沸いていた。つい数年前まで。
そう、それは幼少期の過去であって、今ここではない。

だから大丈夫、私は、今ここに生きているから。


子どもとの、次の面会日まで待ち遠しい。