見出し画像

ガラテヤ人への手紙の著者・内容・宛先・目的

ガラテヤ人への手紙は、新約聖書にあるパウロの手紙の中で一番最初に書かれたものだと考えられます。パウロ自身の歴史、活動の実際が端々に現れる内容。推理小説を解き進めるように、パウロの履歴や、手紙の内容に迫ってみます。

推定されるパウロの初期の履歴

◆推定誕生 紀元前後?(使徒22:3そこで彼は言葉をついで言った、「わたしはキリキヤのタルソで生れたユダヤ人であるが、この都で育てられ)
◆ユダヤ教指導者ガマリエルのもとで学び、訓練(使徒26:3ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について、きびしい薫陶を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者であった。)
◆教会を迫害(ガラテヤ1:13-14; 使徒22:4-5、26:9-12)

◇回心とその直後
◆エルサレムからダマスコへの途上で回心 AD32/3
(ガラテヤ1:15-16ところが、母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになったかたが、異邦人の間に宣べ伝えさせるために、御子をわたしの内に啓示して下さった時、わたしは直ちに、血肉に相談もせず; 使徒9:1-19)
◆ダマスコ周辺の諸会堂で伝道
(使徒9:20-22ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。これを聞いた人たちはみな非常に驚いて言った、「あれは、エルサレムでこの名をとなえる者たちを苦しめた男ではないか。その上ここにやってきたのも、彼らを縛りあげて、祭司長たちのところへひっぱって行くためではなかったか」。しかし、サウロはますます力が加わり、このイエスがキリストであることを論証して、ダマスコに住むユダヤ人たちを言い伏せた。 )
◆アラビヤに出て行き再びダマスコへ
(ガラテヤ1:17 また先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行った。それから再びダマスコに帰った)

◇3年目(ガラテヤ1:18)
◆ダマスコ城壁から吊り降ろされて逃避
(使徒9:23-25 相当の日数がたったころ、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をした。ところが、その陰謀が彼の知るところとなった。彼らはサウロを殺そうとして、夜昼、町の門を見守っていたのである。そこで彼の弟子たちが、夜の間に彼をかごに乗せて、町の城壁づたいにつりおろした。
 2コリント11:32-33)
◆エルサレム上京,ヤコブと会見 AD35/6年
(使徒9:26-28 サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に加わろうと努めたが、みんなの者は彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。
ところが、バルナバは彼の世話をして使徒たちのところへ連れて行き、途中で主が彼に現れて語りかけたことや、彼がダマスコでイエスの名で大胆に宣べ伝えた次第を、彼らに説明して聞かせた。
それ以来、彼は使徒たちの仲間に加わり、エルサレムに出入りし、主の名によって大胆に語り、
 ガラテヤ1:18-20 その後三年たってから、わたしはケパをたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間、滞在した。しかし、主の兄弟ヤコブ以外には、ほかのどの使徒にも会わなかった。ここに書いていることは、神のみまえで言うが、決して偽りではない。)
◆迫害をのがれカイザリヤ、タルソへ
(使徒9:29-30,
 22:17-21,
 2コリント11:23-27,
 12:1-4)

◇14年目(ガラテヤ2:1)
◆アンテオケで奉仕(使徒11:25-26)
◆飢饉の援助をアンテオケからエルサレムへ AD46年(使徒11:27-30)
◆ヤコブ、ペテロ、ヨハネと会見 (ガラテヤ2:1-9)

◆第一次伝道旅行 AD48-49(使徒13-14章)
◆ペテロ、アンテオケ来訪(ガラテヤ2:10-14)

*ガラテヤ人への手紙執筆 AD49
◆エルサレム会議 AD49(使徒15章)

手紙内容

(1) 1:1-2 キリストにある差出人・あて先
(2) 1:3-5 福音による恵みと平安を祈る祝祷
(3) 1:6-10 違った福音にたやすく落ちている教会
(4) 1:11-24 人によらずキリストの啓示による福音
(5) 2:1-10 キリストにあって持っている私たちの自由
(6) 2:11-21パウロの生き様を通して明かされた福音の霊的真理~信仰による義~
(7) 3:1-5 御霊の働きは福音を信じた結果か律法を行った結果か
(8) 3:6-9 信仰によって義とされたアブラハム
(9) 3:10-14 律法ののろいを贖ったキリスト~律法によっては義とされない人間に約束の御霊~
(10) 3:15-18 契約は律法によって破棄されない
(11) 3:19-29 律法の役割は人をキリストに連れてくること~信仰によって義とされるため~
(12) 4:1-11 この世の霊力の下に縛られる者、贖われた者~御子の霊を与えるため~
(13) 4:12-20 真理を語ることと偽りの熱心さへの警戒~キリストの形ができるまでの苦しみ~
(14) 4:21-31 自由なる者と奴隷なる者~霊によって生まれた者への迫害~
(15) 5:1-12 御霊の助けによる福音の真理の理解~信仰によって義とされる望み~
(16) 5:13-26 御霊の働きの現れ~御霊に導かれるなら律法の下にいない~
(17) 6:1-10 御霊によって歩む者たち同士の交わり~霊にまく者は霊から永遠の命を刈り取る~
(18) 6:11-16 この世の誇りをすて新しく造られて進む~割礼の者が律法を守らない~
(19) 6:17-18 パウロの願いと祈り


宛先「ガラテヤの諸教会へ」(1:2)

パウロがガラテヤ諸教会にこの手紙を書いた理由が書かれています。緊急な事情がありました。「あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくこと」(ガラテヤ1:6)という。

パウロと同労者たちが「ガラテヤ地方」を通ったのは、第一次伝道旅行の「南ガラテヤ地方」と、第二次伝道旅行での「北ガラテヤ地方」でした。

北ガラテヤ地方説は、ゴール人地域を指します(使徒16:6)。南ガラテヤ地方説は、パウロの第一次伝道旅行地であった町々の教会が対象ですので、ユダヤ人会堂で説教を聞いた人々の中から救われた者たちによる教会、つまり、ユダヤ人および信心深い異邦人という構成が考えられます。

「大ぜいのユダヤ人や信心深い改宗者たち」(使徒13:43)、「ユダヤ人やギリシヤ人が大ぜい信じた」(使徒14:1)。伝道旅行が終わる前に、形成されたそれぞれの地域にある教会に長老が立てられますが、聖書の知識が十分であり指導力もあるユダヤ人でなければ、このような早期の組織形成は難しかったのではないかと思えます。

おそらくこの南ガラテヤの、ユダヤ人がまだおもに指導していた「ガラテヤの諸教会」に、事件が勃発したのでした。律法に、より強調を置く兄弟たちが入り込んできての攪乱です。使徒15:1にあるように、「モーセの慣例にしたがって」とされる、割礼強要とおそらく口伝律法の問題でした。ガラテヤ人への手紙の中で取り上げられる「律法の行い」(ガラテヤ2:16、3:2,5,10,12)とは、第一には割礼を指すのでしょう。さらに律法の祭儀規定も含まれています(ガラテヤ4:10)。そうした人々は、エルサレム、すなわち使徒たちのいる教会から派遣されてきたかのように装って、まことしやかに自説を伝えたのでしょう。(使徒15:24)

また、「神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていた」(ガラテヤ4:8)と言われていることからすると、この手紙の勧告の相手は、教会の特に「神を敬う」「信心深い改宗者」となった異邦人で、最終的にキリスト信仰を持った人々のようです。本来のユダヤ人であれば、律法を守ることは問題とはなりません。異邦人クリスチャンが、義務として律法を行わなければならないと強制されたところに、問題があったのでした。

ガラテヤ諸教会の信仰は、まだ幼い状態で、エルサレムの使徒たちの派遣で来たと言われたら、そのまま受け入れてしまう子供のような単純な信仰であったのかもしれません。だからパウロも、違った福音を伝えるものは呪われよ、と激昂している半面、ガラテヤ教会の人々に対してはそのような厳しい言葉をかけていません。

パウロがこの手紙の中で問題にしている「律法の行い」とは、なんだったのでしょうか。現在、教会で「律法の行い」と言えば、旧約律法の中で特に倫理規定をさします。割礼も含め、犠牲に関する規定など、形式的祭儀規定は、キリストの犠牲によって終わり、新約時代には、律法既定の中の倫理的な部分だけが有効だ、とするものです。それで、ガラテヤ書を読む際にも、律法を行うこととキリストによってもたらされた自由の対立は、倫理的な教えを実行するにあたっての問題であり、その基本をなす信仰義認の問題に集約されています。

おそらく、この受け止め方の根本にあるのは、「ガラテヤ人」が異邦人であって、パウロの異邦人伝道の実である人々に対する勧告、矯正という内容を想定していたからではないかと思えます。さらに、宗教改革時代にルターがガラテヤ書や、またローマ書から強く影響を受けて改革がスタートしたという歴史的背景もあるかもしれません。争点の大きな一つは、信仰義認だったからです。

けれども、ユダヤ人もまだ多数いて、「神を敬う異邦人」というユダヤ教に非常に親しんでいた人々からなる教会への手紙だという認識のもとに読み直すと、もっと、口伝律法の実施も含むユダヤ教に慣れ親しんでいる人々への勧告であり、彼らの抱いていた神の契約概念に重点を置いた議論の展開として見ることができます。もちろん、たとえ異邦人教会であったとしても、新約時代を支配している神の国の概念から外れるものではありませんから、この視点をないがしろにはできないわけです。

この手紙の全体を覆っている傾向は、「律法の下にある者」への救いの福音の提示です。割礼やユダヤ教カレンダーの問題やが取り上げられているだけでなく、ユダヤ教の世界に浸かっている人がどのようにキリストの福音に目を向けられるようになるか、パリサイ人だったパウロはよく理解していて書いているわけです。ユダヤ教に精進していた時代のことやエルサレムの重だった人たちの記事、異邦人と食事を共にする事にまつわる事件に対処したパウロ自身は生まれながらのユダヤ人であることを明記します(1~2章)。

3章に入ってすぐの質問による議論は、ユダヤ教の教授法そのものでしょうし、「アブラハムの子」との用語と共に旧約聖書からの引用が立て続けになされています。4章に記される「肉体にはあなたがたにとって試練となるもの」は、卑しめられ得るものでした。聖書を教える立場の祭司には身体的な基準も定められています(レビ21:)。パウロはそれに該当する病気にかかっていたと考えられます。

煽動者に対する激しい言葉もまた、旧約聖書を背景とする言葉そのものです。「のろわれるべき」(1:8,9)は犠牲の動物が屠られることをイメージさせる言葉であり、「去勢する」(5:12)は割礼にあてつけている言葉として強いイメージを与えます。

そして、聖書の実践的教えの中心をなすものとして提示されているのが、レビ記からの引用。イエス・キリストの新しい教えを優先させて引用し、互いに愛し合うことを教えてもよい箇所で、パウロはあえて旧約律法を引用しているのです。

このように、ガラテヤ人への手紙は、非常にユダヤ色の強いものとなっています。「ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。」(1コリント9:20)とパウロが書いている通り、第一には律法の下にある人向けに、この手紙は書かれているのだろうと考えられます。

さて、ガラテヤの諸教会を惑わした「ある人々」は、まだガラテヤに滞在していて、パウロのこの手紙を一緒に読むことになったのでしょうか。彼らは、ガラテヤ諸教会が思い通りに律法順守生活に入ったのを見届けて、すでに立ち去っていたように思われます。もし、その場にまだいたとしても、パウロの使いは、彼らに向かっても大胆に手紙の内容を伝えて、神の呪いを宣告していたでしょう。


目的

手紙の冒頭、「違った福音」について語られます。では正しい福音とは何でしょうか。「 聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、『あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう』との良い知らせを、予告したのである。」(ガラテヤ 3:8)とあるように、すべての国民が信仰によって神に祝福される「良い知らせ」を指しています。そしてその祝福の内容が、神に義とされることであり、また約束された神の聖霊を受けて聖霊の導きに従った生活を送ることです。

そのためにこそ、キリストはこの世に来られたのでした。「キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。」(ガラテヤ 1:4)

「悪の世」から救われなければならないのが、私たち人間です。悪の世の中にとどまっていては、神の祝福は受けられない。それが神の約束からパウロが理解したことです。どうやって、そこから抜け出ることができるのか。神が約束していた「聖霊」が与えられることによって、が、この手紙での答えです。律法の下にある人々がキリストを受け入れた後で、再び律法によって悪の世から救われて神の国を目指すよう、エルサレムから来た人々によって攪乱させられてしまいます。そこから本来の福音に立ち返り、福音によって悪の世から救われて、キリストにあって神に生きるために新しく生まれ変わることを明確に目的としているのです。それにそって、この手紙の全体構成を考えたいと思います(ガラテヤ6:15)。

律法の下にある者に対する福音の提示として、大変重要なことは、個人的な信仰という面でしょう。律法の下にある者にとって、神の祝福の約束は、民族としてのイスラエルに与えられていると考えられていました。だからこそ割礼を最重要事項とされていたわけです。しかし、真に神の祝福を受けるための条件は、そうした外見上のものではなく、心で信じる者に約束の聖霊が与えられるという、非常に個人的な事柄です。パウロが「わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰」(2:20)を強調するのは、キリスト者にとっての最重要事項だからです。

「悪の世から救われる」ことは、また、神の約束の御国に入ることをも指します。個人的にそれぞれに信仰を持つ者たちはバラバラな存在ではなく、神の御国の住人としてみなされる存在です。その第一の特徴が、神の約束の聖霊を受けて、聖霊に導かれて歩むこと。神の支配のもとにあることが「神の国」にあることなのですが、神の支配は決して法令に基づいた強制的なものではなく、聖霊の導きに自発的に従うものです。

そこから、キリストにある自由、御霊によって得られる信仰生活に焦点を当て、キリスト者を文字に仕える者とする罠に陥らず、霊に仕える者として歩むように強く促す手紙である、という理解で読むことができるでしょう。割礼問題を最先鋒として、律法の全体を守らせようとする人々は、意識せずに、イエス・キリストの恵みを打ち消し、すべてを旧約時代に戻してしまおうとしていたのです。それは、聖霊なる神の働きに対する生きた感覚の欠如のゆえともいえます。

聖霊に導かれるという経験を論じることは、非常に個人的な出来事を浮き彫りにしながらでなければできないことだ、と、この手紙を読んで感じ取ることができます。霊感を受けて書かれた手紙に対してどのような態度をとるか、という受け手の問題と同じくらい、ガラテヤの聞く耳を持たない読者に向けて、霊感を受けた著者はどのように書き進めているか、という点は、非常に興味深いものがあります。聖霊に導かれている人がどう他人に接しようとしているかの事例を見るからです。

そうした意味でも、一般に言われる、「わたしたち」の罪のために死なれそして復活したキリストへの信仰告白とは別に、この手紙に、パウロのとても個人的な告白「わたしのために、わたしを愛し」があるのも、興味深いところです。

そして、御霊を受けることは、今の時代になって突然現れた教理などではなく、約束されていた聖霊と言われるとおり、この聖霊の導きに従って歩むことこそが、キリスト者に自由をもたらすものであることが続けて論じられます。これが、この手紙の主要な議論点だと考えられます。

そして、手紙の最後の部分では、御霊を受けた個人の集まりとしての教会が、互いに愛し合うべきという「キリストの律法」にのっとって真理に立ち続けるように、神が備えてくださっていることを記して、手紙は閉じます。

律法によって神に仕えようとするとき、私たちは、文化と切り離すことのできない宗教に縛られることになると考えられます。神に直接結びつけられ、神に仕えることができるか、と今の時代に問われるとしても、それは可能だ、と答えることができるでしょう。ガラテヤ人への手紙が、その答えを提示しているからです。聖霊の導きに従って歩むようにという結論は、決して他のものに替えてはならない大原則なのです。

2019.1.25. update 2020.2.20

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?