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II. 使徒パウロが伝えたキリストの福音 ガラテヤ1:6-2:21 (1)違った福音にたやすく落ちている教会 1:6-10

A.教会の変心(1:6)

6 あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。

パウロの手紙の中では非常に珍しく、感情の吐露が先立っているような書き出しです。イエス・キリストがラザロの死を悲しんでいる人々の中で「霊に憤り」(ヨハネ11:33、新改訳2017)を感じた場面を思い起こします。でも、激情にかられて厳しい言葉をつい書いてしまった、というのではありません。福音の核心、福音の命~「キリストにある自由」「福音の真理」と後でパウロは言っています~に関わる問題に接して、命を奪い取ろうとする勢力があることに対して、霊の憤りをパウロもまたここで感じていたと推察されます。

他の手紙では必ずある「あなたがたのゆえの神への感謝」が、ガラテヤ人への手紙には抜け落ちているのも、事の緊急性が極限なため、命の危険が迫っているため、とも考えられます。

「違った福音に落ちていく」ことは、取りも直さず神の恵みから離れてしまうことであり、非常に重大な危機に直面していることを自覚させられる必要があったわけです。車が行き交う道路に飛び出してしまった幼児に、守り助けようと大声で駆け寄っている姿のようです。

キリストの教会、しかも使徒パウロ自身が福音を伝えて、確かに神の命を頂いたはずの諸教会が、神の恵みから離れてしまうことがあり得る、のです。それはいわゆる「救いを失う」こととは違うのでしょう。「キリストの恵み」を見失った信仰生活に陥り、神を喜ぶことができなくなってしまうのです。

パウロ自身についても言っている、恵みによって招かれ(召され)たと言うのと(15節)、あなた方が招かれたと言うのも、同じ用語 kaleo。キリストの恵みによって召されたことにおいて、使徒パウロと「あなたがた」とに、違いはないのです。

信仰生活とは、宗教規則を守ることではありません。キリストの恵みのうちにお招きになった方に信頼しつつ、共に歩み続けることです。その方から遠ざけるような働きかけに、パウロはとても憤っているのです。

B.キリストの福音を曲げている者(1:7)

7 それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。

「違った福音」の説明をパウロは少し加えます。決して「喜ばしい、良い知らせ」などと言える代物ではない、と断言するのです。(1) ある種の人々があなたがたを かき乱すだけの教えであり、(2)キリストの福音を曲げようとするもの、でした。

(1)「ある種の人々 tis」とパウロはあやふやに語るだけですが、使徒15章で、「ユダヤから来たある人たち tis」と、ここと同様に記される人たちの存在が記録されています。「彼らがあなたがたに対して熱心なのは、善意からではない。むしろ、自分らに熱心にならせるために、あなたがたをわたしから引き離そうとしているのである。」(ガラテヤ4:17)

パリサイ派出身の人々が割礼とモーセの律法順守を異邦人にも押し付けようと主張している姿が、使徒15章に見られます。福音書に記されるパリサイ派は、先祖の言い伝えに熱心な者として描かれていました。人々の幸いのための熱心、と言うより、言い伝えそのものに熱心であったのです。

(2)キリストの福音を「曲げる metastrepho(変貌させる、堕落させる)」試みは、まさにこの世を支配している悪魔的なものと言えます。神ご自身が罪びとに対する最大限の愛を提示してくださっているのに、それを無にしようとしているのです。神とのまっすぐな関係を、曲げてしまうものでした。

初代教会スタートの時から、教会内部に生じる違った教えの危険はあったのです。イエス・キリストの天国の譬でも、「毒麦」の譬がありました(マタイ13:24-30,37-43)。そもそも、イエス・キリストに対してユダヤ教は全く否定的で、その教えを全く理解できませんでした。ユダヤ教を背景とする人々にとって、福音の教えは全く馴染みのないもので、ユダヤ教の伝統に戻ってしまう強い力が常にあったと言えます。

福音によって、全ての民族が等しく神の祝福を受けられるようになったのに、それを再び古い時代の枠に戻そうとしてしまっていたのでした。それは、キリスト者が持っているべき自由を奪うことでもあったのです(ガラテヤ2:4)。

「使徒」パウロから引き離そうとする人々の働きかけに、ガラテヤの諸教会は、いともたやすく乗ってしまいます。それは、実はパウロから引き離すのではなく、恵みに招き入れた方から引き離すものでした。キリストの福音を全く違うものに変えてしまったのです。使徒パウロには、絶対に見過ごすことができない事態だったのです。

C.福音に反することを宣べ伝える者へののろい(1:8-10)

8 しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。 9 わたしたちが前に言っておいたように、今わたしは重ねて言う。もしある人が、あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えているなら、その人はのろわるべきである。 10 今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。

パウロは、ガラテヤの諸教会に対して、激情に駆られてただ怒りを文章に表しているというのではありません。「のろわるべきである anathema」が2度繰り返されます。「血祭りにあげる」とでもいうべき言葉で、贖われる望みなく神によって屠られることを指します。犠牲の動物が屠られることをイメージさせる言葉で、旧約宗教に精通している人にはこのイメージは鮮烈だったのではないかと考えられます。ユダヤ教(旧約宗教)で使われる祭儀を想起させる用語を、パウロは5:12節でも使用しています(「不具になるがよかろう」。こうした言葉遣いは、読者が律法に通暁していることを予想させます。

神がのろう、というのは、私たちにはあまりなじみがないことです。憎しみを持って相手にわざわいが来るように願うこと。キリストに表された神ご自身は、すべての人の罪を赦す愛の神であったはずでした。ここで、私たちが神の祝福を受けるためにこそ、キリストが私たちの代わりにのろいを受けたのだということは、自覚しておくべきです。「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。」(ガラテヤ3:13) つまり、神は「律法ののろい katara」からの救いをキリストによって成し遂げてくださったのでした。

それを再び律法に押し戻そうとする「ある人々」の行為は、教会が神ののろいに合うようにしてしまうものです。だから、パウロは声高に、「その人はのろわれるべきである」と宣告したのでした。律法ののろいにふさわしく、律法の規定に定められているように犠牲が屠られるそのままのことが起こってしまえ、との意図が込められているのでしょう。

パウロは、諸教会が「ある人々」に心を向けてしまって、「あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかた」から心が離れることに、警告を促していました。そのあとを受けて、たとえパウロですらもし違った福音を語るなら、のろわれるべきだ、と強く言います。

私たちも、「指導者」の言葉をうのみにしてしまう弱さを持っているかもしれません。中央の本部で「重だった人たち」とされる人々の発言を聞いて、検討を加えることなく受け入れてしまう弱さです。目に見える権威、人間的な力、伝統と呼ばれる歴史的背景など、尊重はしても、神の権威と決して取り替えることはできないものを、優先させてしまいがちな性向です。

牧師がこう言ったから、学者がこう言ったから、という内容を、まず、聖書に照らし合わせながら共に検証する姿勢を忘れないことです。(使徒17:11)



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