見出し画像

I. キリストの福音による恵みと平安のため ガラテヤ1:1-5 (2)

(2)福音による恵みと平安を祈る祝祷 1:3-5

差出人、宛先に続いて、挨拶の言葉となるのですが、そこでパウロは祝福を祈る言葉をつづります。単なる儀礼の言葉としての祈祷文ではなく、これから書き綴っていこうとしている手紙の内容が、本当に読み手にとって祝福となるように、という気持ちが込められた祈りです。


 A.神、主から恵みと平安があるように(1:3)

3 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

ここから本文に入って書かれる内容が、実質的に読者に実現するための「恵み」を祈り求め、さらに実現する期待に伴う「平安」を、父なる神、また主イエス・キリストに祈りつつ書き進めていることを表すものでしょう。

なぜ、聖霊がここに含まれないのか。三位一体と呼ばれる聖書の神ですが、父・子・聖霊が、常に同様に語られるわけではありません。父また御子から遣わされるのが聖霊だとされます(ヨハネ14:16,26、他)。恵みと平安を、実際に読者の心のうちにもたらしてくれるのが、聖霊です。パウロの祈りは、その源泉たる方である父と子への祈りと言えます。

「神」と「主(しゅ)」。インドネシア語の聖書では、「神」はAllah。インドネシア語の宗教用語は、アラビア語からきているものがいくつもあって、またさらに、アラビア語と旧約聖書の大部分で使われるヘブル語とが近い言語ということもあって、インドネシア語の訳語が、ヘブル語の原語にそっくり、ということも起こります。(たとえば、kudus<聖>。) 全知全能の創造者たる神です。

「主」は、インドネシア語では「Tuhan」。「ご主人様」と呼びかける言葉「tuan」の真ん中に「h」が入って発音に強調が加えられたもの。神より「主」のほうがより人格的なつながりが強調されているように思われます。

 B.キリストによる贖いを成し遂げられた神に栄光があるように

4 キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。 5 栄光が世々限りなく神にあるように、アァメン。

「今の悪の世 tou aionos tou enestotos ponerou」:「世 aion」は「時代」を表します。「今の」現在置かれている時代は、「悪の時代」だと言います。この世を私たちが改革するのではなく、この世から救われなければならないことが、人類にとって真の課題であることが伝わってきます。

イエス・キリストが「悪しき poneros 者」と呼ぶ存在があります(マタイ6:13;13:19)。「悪」霊の存在は、福音書には頻繁に記されています(マタイ12:45)。同じくイエス・キリストは今の時代を、「邪悪で poneros 不義な時代」(マタイ12:39;16:4)と呼びます。人間の心のうちにある「悪い思い」の存在も、明らか(マタイ15:19、マルコ7:20-23)。それが、「世の行いの悪いこと」として表されているのです(ヨハネ7:7)。

日本語でも「悪」魔と呼んでいるけれど、それが悪の根源。

「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。」(ヨハネ8:44)

が、悪魔を端的に言い表しているキリストの言葉。

パウロも、「悪しき者」を認識しています(エペソ6:16;2テサロニケ3:3)。「今は悪い時代なのである」(エペソ5:16)とも明言しています。

さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。(エペソ2:1,2)

というパウロの言葉は、ヨハネ8:44を踏まえているでしょう。

心の中にある悪い思いと、今の世を空中で支配する悪魔と、結びついて、悪い行動が人間を支配してしまう。さまざまな行為、考え方が、その習慣に染まってしまっているために、支配されていること自体を認識できない。ユダヤ教の指導者であったパウロ自身が、回心して初めてそれを認識したのでしょう。イエス・キリストが「あなた方は」(ヨハネ8:44)と呼んでいたのは、ユダヤ教の教師たちでした。

宗教は、悪の世からの救いを保障するものではありません。むしろ、人間の活動としての宗教も悪の世のとりこになり得ることを、イエス・キリストは指摘したのです。

創世記のノアの時代のような、

人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりである。 (創世記6:5)、
時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。(創世記6:11-12)

というように、悪が極限に達している状態とは、今の世とは異なるでしょう。聖書も、今の時代が、ノアの時代同様に、悪が極限にまで達しているとは言っていないように考えられます。いずれ、「今の悪」が極限に達し、この「世」が終わる時が来る、と聖書は示唆するのです。そこまでは今、至っていないとしても、それに向かって進んでいるようなイエス・キリストの言葉もあるからです。

「そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。」(マタイ24:9-12)

そのとき、「不法がはびこる」。これは、ノアの時代と同様な、悪が極限に達するときをさしているように見受けられます。今の世は、本当にそのときをさして突き進んでいるのでしょうか。それを止めることはできるのでしょうか。そもそも、聖書の描いている「悪の世」ということ自体が妄想のようなものなのでしょうか。冷静に、今の世を見渡しつつ、真理が何なのかをはっきり知る必要があります。数千年、多くの人々が本当かどうかを試してきて、捨て去られることのなかった聖書の言葉こそ、耳を傾ける価値あるものではないかと思えます。

今の悪の世(時代)から救われることは、来たるべき良い世(時代)に入ることを予想させる言葉です。神の約束である「天国(神の国)」が成就することへの期待があるのです。未来において目に見える状態で天国が存在するようになることはもちろん、目に見えない状態で天国は現存すことを、新約聖書は伝えています。パウロはコロサイ人への手紙の中では

「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」(コロサイ1:13)

と記します。悪の世の支配から救われて、御子の支配下に移されている、つまり天国にすでに置かれているのです。それがパウロの伝えている福音でした。

このあとからパウロが力を込めて否定する「違った福音」は、その現存する天国をなきものにしてしまうのです。それで、ガラテヤの諸教会に対するこの手紙では「神への感謝」もささげません。

「わたしの神に感謝する」(ローマ1:8;1コリント1:4;2コリント2:14、9:15;エペソ1:16;ピリピ1:3;コロサイ1:3;1テサロニケ1:2;2テサロニケ1:3)という類の表現でなされている教会向けの一種の賛辞。人々のすばらしさに目を止め、それを直接ほめるのではなく、そのことで神に感謝するのが、パウロ。ガラテヤ人への手紙にはそれがありません。

それほどに、ガラテヤ諸教会は危機の中にあったと言えます。感謝の源泉もまた福音であり、「良い知らせ」をもたらして下さった源たる方に感謝を忘れることはありません。ところが、すぐ次の文章から始まる問題点は、まさに福音そのものを変質させていることについてでした。彼らが福音にはっきり立ち返ったところに手紙が書き送られたのだったら、感謝あふれるものになっていただろうと思えます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?