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ドリアンのシンガク・ノート(キリスト教神学)

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聖書や教会に関するちょっとリクツっぽい話。見えない神がここで見えるはずなのに、違って見えているかも、というところが気がかり。
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#天国

シンガク・ノート メモ

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キリしよん(11) 天国を持つ人、持たない人

マタイ25:14-30 キリストの終末預言、略して「キリしよん」。譬と同じで、説明を聞かないとこれだけ見てもわからない、ですよね。 天国の譬話が続きます。「タラントのたとえ」というタイトルで有名な個所です。 前回は、思慮深いか思慮が浅いか。その違いは、「わたしはあなたがたを知らない」と言われて置いてけぼりにされるほどのものでした。でもその譬による教えの結論は、むしろ、恵みをほうふつとさせるものでした。 今度の譬は、「良い忠実な僕」「悪い怠惰な僕」の違いを教えてくれるも

キリストの終末預言(10) 世の終わりの恵み

マタイ25:1-13 いつ起こるのか誰にも決して知られることがない、天に引き上げられるという出来事を、どのように待ち受けたらいいのでしょうか。しかもそれが本当は誰に起こるのか、いつどうなるかわからないままでいる不安を解消できる、はっきりとした基準が、弟子たちに語られます。 ただし、譬で、というところがちょっと難しいところです。マタイの福音書13章でも譬による天国の教えが多数ありましたが、イエス・キリストに繰り返し問い直す弟子たちにだけ、その意味が明らかにされていました。尋

キリストの終末預言(8)―天に引き上げられるという福音―

マタイ24:34-41 天に引き上げられる。天にも昇る気持ち、いや、気持ちだけではないのです。 でも、すべての人、ではないみたい。なぜ? だいたい、天に引き上げられる、という出来事のスケールが大きすぎるので具体的にイメージするのが難しいのですが、それは、神さまが大きすぎてイメージするのが難しい、ということにつながるように思います。 それで、神さまはいったい何を考えているんだろう、いったい人間に理解できるんだろうか、という疑問も生まれるのです。 神さまの側からしたら

キリストの終末預言(7) ―譬から学びなさい―

マタイ24:32-41 天に帰る。死んでから、というのではなく、生きているときに。生きながらにして天にあげられる時が来る、という教えが、聖書にあるように思います。それがどう実現するのか。 24章から始まったイエス・キリストの終末預言は、「世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難」(マタイによる福音書 24章21節)を知らせてきていました。 大患難があるという預言は、イエス・キリストの弟子たちにどういう意味があるのか。弟子も患難を味わう事になるのか

イエス・キリストの歴史と真理 マタイ福音書ノート

―天国の福音―「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。」 使徒マタイによるイエス・キリストの系図[ギリシャ語genesis]。マタイは、イエス・キリストの十二使徒のひとり(マタイ10:3)。自分に関して「取税人」とわざわざ肩書のように記しています。マルコもルカも、肩書なしのマタイとだけ紹介しているだけなのに(マルコ3:18,ルカ6:15)。エピソードの順序を時間順ではなくテーマごとにまとめて書いているマタイが、自分の出自を福音書9章に置いているのは、罪が赦