マガジンのカバー画像

ドリアンのシンガク・ノート(キリスト教神学)

46
聖書や教会に関するちょっとリクツっぽい話。見えない神がここで見えるはずなのに、違って見えているかも、というところが気がかり。
運営しているクリエイター

2021年6月の記事一覧

キリストの終末預言(10) 世の終わりの恵み

マタイ25:1-13 いつ起こるのか誰にも決して知られることがない、天に引き上げられるという出来事を、どのように待ち受けたらいいのでしょうか。しかもそれが本当は誰に起こるのか、いつどうなるかわからないままでいる不安を解消できる、はっきりとした基準が、弟子たちに語られます。 ただし、譬で、というところがちょっと難しいところです。マタイの福音書13章でも譬による天国の教えが多数ありましたが、イエス・キリストに繰り返し問い直す弟子たちにだけ、その意味が明らかにされていました。尋

キリストの終末預言(9) 目をさましていなさい

マタイ24:42-51 見えていなかったのに見えてくる。目からうろこ、という経験があるものです。 それが、しばらくすると目が曇って来る、ということもまたあり得るのです。見えていたはずなのに、と。しかも、自分では見えているつもりでいる。。。そういう危険性があるということで、イエス・キリストは、「目をさましていなさい」と忠告しています。 グレゴリオ「覚醒者」6~7世紀カトリック教会の教皇の名前で、「グレゴリオ聖歌」でも有名ですが、ギリシャ語の意味が「目をさましている」。名前

キリしよん マタイによる福音書24-25章 イエス・キリストの終末預言

マタイが記録しているイエス・キリストの5大説教集の最後。オリーブ山という、エルサレム神殿を真正面に見る丘で弟子たちに語られたものです。 キリストの昇天が紀元30年と考えられていますが、あと10年ほどでちょうど2000年になる今、この説教は緊迫感を伴って私たちの心に迫ってきます。 マルコもルカも、少し違う視点からまとめています。ここでは、マタイの視点に沿って学んでいきたいと思います。 神殿、今の世の終わりと患難時代の前兆~気をつけなさい

キリストの終末預言(8)―天に引き上げられるという福音―

マタイ24:34-41 天に引き上げられる。天にも昇る気持ち、いや、気持ちだけではないのです。 でも、すべての人、ではないみたい。なぜ? だいたい、天に引き上げられる、という出来事のスケールが大きすぎるので具体的にイメージするのが難しいのですが、それは、神さまが大きすぎてイメージするのが難しい、ということにつながるように思います。 それで、神さまはいったい何を考えているんだろう、いったい人間に理解できるんだろうか、という疑問も生まれるのです。 神さまの側からしたら

キリストの終末預言(7) ―譬から学びなさい―

マタイ24:32-41 天に帰る。死んでから、というのではなく、生きているときに。生きながらにして天にあげられる時が来る、という教えが、聖書にあるように思います。それがどう実現するのか。 24章から始まったイエス・キリストの終末預言は、「世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難」(マタイによる福音書 24章21節)を知らせてきていました。 大患難があるという預言は、イエス・キリストの弟子たちにどういう意味があるのか。弟子も患難を味わう事になるのか

キリストの終末預言 (6) ホントウの救い主、って。。。?

マタイ24章23-31節 世の救い主、と呼ばれる人とは、どんな人なのか。それは私の救い主でもあるはずだけれど、どれが本当の救い主なのか。そもそも、本当の救い主はいるのか。 困難のただ中にある時、助けの手を差し伸べてくれる人があれば、それにすがるのは自然の成り行き。その人が本当に善意でしてくれているのかどうか、その時には考える余裕もないままに。「弟子」にとっても同じで、救いの手が差し伸べられるとき、「神の助け」と思ってそれにすがってしまうだろうと思います。 はっきりと「偽

キリストの終末預言(5) 大迫害者が来てしまったら

マタイ24章15‐22節 聖書の中で預言と言われる箇所を、どう読んだらいいのか。未来の出来事を本当に教えてくれるのか。 ユダヤ人にとって、基本は「モーセの律法」にある預言だったはずです。祝福と呪いの預言が、実際にバビロン捕囚として実現した。でも、今はそれすらも事実というより神話としている流れが主流。もし神話にしてしまうんだったら、神とイエス・キリストもまた神話の中にしかいなくなりそう。 でも、約束を守る遺伝子は、神から来ていると思うんだけれど。あ、これは比喩的表現です