ガチ恋勢というネーミングは相応しくないという話 ver1.1

 最近話題になっている、まふまふと潤羽るしあの騒動をみて、前からふんわり思ってたことを言語化してみようと思う。いわゆる「ガチ恋勢」がなぜ生まれるのか少し考えてみた。「いや普通アイドルとかにガチ恋しないでしょww」と斜に構えてバッサリ切り捨てることは簡単なのだが、実際冗談でなくこうして狂ってしまったツイートが散見されるので、(これが全て冗談であった方が望ましいのだが)一応「ガチ恋勢」が実在するものとして話を進める。

追記(2022/3/2)
「ガチ恋勢」という言葉の定義が少し曖昧だったので補足しておく。ここで私が呼んでいる「ガチ恋勢」は少し狭義で、本当に演者に恋をしているかのごとく熱烈な応援をしているファン集団(広義のガチ恋勢)のうち、演者のプライベートな問題(主に慶事を想定しているが)を非難し、なにかと「信じてたのに」や「裏切られた」などの被害者面をするような集団のことである。また、ガチ恋勢から「ガチ恋勢」を差っ引いた補集合を、私は「善良で熱狂的なファン」だと思っている(もちろんbene-とfanaticという意味で)。良く有る、「推しの幸せは自分の幸せ」っていう人たちのことね。


結論:人として成熟していないため、好意を区別できない


好意を区別できない とは

 まず、「区別する・差異を見出す」ということについて私見を述べておく。分類するということ、違いを見出すことは知識や興味関心が無ければできない。例えば、二次元に詳しくない人はラノベと漫画を区別できず、まとめてマンガと呼ぶだろう。スマホに疎い人はアンドロイドとiphoneを区別できず、まとめてスマホと呼ぶだろう。このように、区別するのは全く興味がない人からすると非常に難しく感じるものなのだ。同様、「ガチ恋勢」は他者からの好意を、もっと言うと他人との関係性を区別できない。(余談だが、「分かる」ことは「分けられる」ことだ。我々はケイオスな世界を自身の感性と理性によって、掌握しうるカタマリにまで細かく切り分けているのだ。)


演者はみな「仕事」で愛想を振りまいている

 このような言い方を敢えてしたのは、恐ろしいことに世の中には0か100かでしか物事を考えられない愚か者が多数存在してしまっているからだ。例えば「好きじゃない」と言ったら「それって大嫌いってこと!?」と返してくるヒトを檻の外から見たことがあるだろう。あれは好きを100としたらそれが否定されることイコール大嫌いと御変換してしまう悲しきモンスターなのだ。この世界のほとんどの事象は段階的であるということを自宅の和式便所にでも置いてきたのだろう。話を戻すと、「仕事」で愛想を振りまいている、というと「あいつらアイドルは金のためだけに嘘の愛想を振りまいて、俺らファンのことはただの金づるだとしか思ってないんだ!!裏では悪口をたんと吐いているんだ!!!」とまで妄想する人がいると思ったので一応五寸釘を指しておく。仕事でやっている、というのは決して悪い意味ではなく、仕事のみでファンに対する感情を一切含まないとか、気持ちだけでやっているからお金はいらないとか、そういう極端なことではもちろんない。

 一口に演者と言っても色々あるので、ここでは例として声優を取り上げてみる。声優は作品に声を吹き込むことでその作品を違う形へと昇華させる職人である。なにかクリエイティブな活動をしたことがある人は特に分かると思うが、自分で作品を作り上げるのはたまらなく気持ちいい。声優は他の業界と比べてそこまで収入が良いわけでもない(と思う)ので、特にお金よりもクリエイターとしての面白さを優先して活動している人が多いように感じる(というかお金目的だけだと辛くてやってられないのではないか)。ここでは一例として声優を取り上げたが、演者は皆多かれ少なかれクリエイトする喜びを見出しているはずである。なので、ファンとの交流はこの「喜び」に含まれるのではないか、と思う。

 演者が愛想を振りまくのは確かにお金のためでもあるだろうが、作品を作る一環としてファンとの交流がある、というだけなのだ。だから演者はファンに色恋の類の好意を持たない。1対1であればまた別だろうが、1対多数であればファンは個の総体ではなくそれ全体でファンという1個体とみなされる。演者はそうみなすので、そういう好意をそもそも持たない。そこにあるのは「演者とファン」という友好的な関係だけである。

「ガチ恋勢」は好意に知識・興味関心が無い

 「ガチ恋勢」は好意を区別できない。区別するとは対象に知識・興味関心がないとできない。よってガチ恋勢は好意に知識・興味関心が無い、と推論した。「好き」という言葉には関係性の前提が隠れている。友人として好きなのか、恋人として好きなのか、はたまた仕事仲間として好きなのか。演者からファンに向けられる「好き」は「演者とファンの心地よい距離感」としての「好き」なのだ。であれば、ファンから演者に向けられる好意も同種なのが当然であろうし、ファンもそれを理解して応援している(ファンはそのように自覚すべきであり、その自覚に伴った行動をすべきだと私は思っている。)。しかし「ガチ恋勢」という生物はここがわからず、演者が自分に向ける好意は自分が演者に向ける好意と同種または同一のものであると勘違いしてしまっている。(おそらく、好意の主従関係において自分が絶対的な主人で演者を従者(奴隷?)に据えているということに気づいていないのだろう。)
 この文だけを切り抜かれたら怒られるかもしれないが、おそらく「ガチ恋勢」は人生経験に乏しい。これも決して悪い意味ではなく、単に人生経験が足りないというだけだ。なので若者が「ガチ恋勢」になるのはしょうがない部分もある。他人と色々な付き合い方をしていかないと好意の多様性を実感できない。冒頭で述べたように、アンドロイドとアイフォンをまとめてスマホと呼ぶ人も、知識をつけて実物に多く触れれば区別は可能になる。好意は修得するのが他に比べてちょいと大変というだけだ。特に「ガチ恋勢」になってしまうようなヒトは他人から多種多様な好意を受けたことがないのだろう。若いうちからまともに恋愛をしないと拗らせる、なんて誰かが言っていたが、それが拗らせる原因の全てだとは思わないが、一因であることには納得している。

「ガチ恋勢」はガチオナ勢である

 結論を詳しく述べると、「ガチ恋勢」はそもそも恋という類の好意について知識・興味関心がないため、演者が向ける好意を区別できず、一方的に勘違いしている。だが知識がないのは上述したが、興味関心についてはあまり深く触れていないのでここで触れようと思う。「ガチ恋勢」は恋に興味がない。逆説的と感じるかもしれないが、「ガチ恋勢」がやっていることは恋愛ではなくオナニーである。相手からの好意をぐにゃぐにゃに自分の都合の良いようにねじ曲げてこちらも愛(笑)を返す、という交流にエクスタシーを感じるオナニーをしているだけだ。そこに演者や他のリスナーを思いやる気持ちは全く無く、配信の雰囲気が気まずくなっても申し訳なさなど1ミリもない(寧ろ自分のスパチャやコメントで配信が面白くなった!とさえ感じているのでは?)。これをオナニーと言わずしてなんと言おうか。以上のことから、「ガチ恋勢」などという実態と乖離したふわふわネームをつけるのではなく、キチンと蔑称の意味を込めて『ガチオナ勢』と呼ぶべきである(オナニーガチ勢と被ってしまうのであればVオナガチ勢とかでもいいかもしれない、そこら辺は天才がそのうちネーミングしてくれるであろう)。

最後に

 散々ガチ恋勢はヤバいという話をしてきたが、私自身、「若者ならばしょうがない」と思っている。若者はまだそこらの分別がつかないであろうし、環境によっては十分に歪んでしまうであろう。そして配信者に狂うことがその子にとっての救いなのであれば、それを取り上げるというのも野暮ではないか。同様の論理で若者がホストやキャバクラに狂ってしまうのも仕方ないと思っている(そういえば誰かがVをネットキャバクラと揶揄していた)。だが成長するにつれ自立していく(もしくは他の依存先を見つける)であろう。そのような若者を「若気と至り」と苦笑してやるのが我々老兵がせめてやってあげられることなのではないか。ただしおじさんおばさん、ぺこーらはダメだ。失礼、テメーらはダメだ。


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