インターネット宗教を本格的に開くための「憎悪」に関する脳内議事録

どうせ当職はやる気が続かないので、しばらく開かないと思ってたけど、当職がファンをしているアーティストが炎上したので、その腹いせで宗教を開こうと思いたった。

当職が既に信仰している宗教は「恒心教」だ。既存宗教だが、れっきとした教義があるわけではない。

そこで恒心に教義を与えようという試みは以前行った。

これを中核として、今回思ったことを書き加え、インターネット宗教として宗教を開く。名前は「恒心教やる夫派」でもなんでも良い。

ということで、考えたことをつらつらと書いていく。

中核としての「すべてのヘイトを唐澤貴洋に」

前記事の最終的結論として、二大教義の一に

隣人を愛せ。憎悪は尊師のみに向けよ。

を掲げた(憎悪教義)。

もう一つは「インターネットの自然を受け入れよ」(自然教義)であり、憎悪教義は尊師に、自然教義はチンフェと対応する。

しかし、ターン制の崩壊とチンフェ路線の地盤沈下により、当職の中で自然教義の意味は薄れ、憎悪教義への研究が進んだ。

これはインターネット自体の変化によるものだ――個人情報特定が必ずしも武器になるとは言えない時代の到来により、当職の脳内での自然教義は力を失ったのだと思う。

さて、この「すべてのヘイトを唐澤貴洋に」という憎悪教義は、過去2015年くらいまでは一般的だったと記憶しているが、いまやほとんど顧みられることのない考え方となっている。だが、当職の中で、憎悪というものへの反発は一層強まり……「彼ら」の言い方で言えば、憎悪を憎悪するようになった。

だが、なぜだろう、尊師への憎悪はもはやどうでも良くなっていった。多分、当職が憎悪しているのは、降臨ショーをやっている「史的カラサワ」ではなく、「真理の御霊 最聖 唐澤貴洋 尊師」なのだ。そして、唐澤貴洋にだけ憎悪すれば、他に憎悪する必要がないというアイデアに、より深くのめり込むようになった。

それはなぜかと言えば、ある意味でインターネット的手法が、それもイデオロギーをモジュール式に切り替えられる、インターネット的手法が、世の中に蔓延ったのが原因だろう。

憎悪に関する自分語り

自分が小学生だった頃、パソコンで2chを開くと、ネトウヨが跋扈するのを見て、酷く反発を感じた。なぜこんなに、韓国・朝鮮人に酷いことが言えるのかと。当職はニコニコのランキングを見たことはほとんどない。なぜなら「政治」のカラムがあるからだ。それを見るたび、心がすり減るのだ。

それが今になって、キャンセルカルチャーに同じ反発を感じているのを、認めざるを得ない。憧れの芸人やアーティストが叩かれるのを見て、憤怒のあまり眠れなかった日もある。この心の変化をうまく説明する理論として、当職は「憎悪」が、人が人に憎悪する様子を見るのが、生来生理的に受け付けない人間だと確信する。

じゃあお前なんで尊師に憎悪するのか?と言われたら、なんでだろうと一瞬考えるが、多分「すべてのヘイトを唐澤貴洋に」が要因だった。

たった一人、顔も知らぬおじさんを憎悪すれば、その他の憎悪から抜け出せる。「すべてのヘイトを唐澤貴洋に」という言葉に、当職は帰依していたのだった。

ただ憎悪をやめれば、人間の本能である憎悪を憎悪することになり、それはすなわち人間を憎悪することになる。いや、性善説を採って、憎悪は人間の本能ではないということにしても、誰かを憎悪しているたくさんの人間を憎悪することになる。

しかし、憎悪をある人間にだけ行い、そしてそれを宗教的行為として、「唐澤貴洋殺す」という究極の憎悪を神聖六文字として崇め奉れば、憎悪に敬意を払いつつ憎悪をやめることができる……

多分その時代に当職の中であった、妙な納得感を、言葉にするとこんな感じなんじゃないかと、今しみじみと思った。

インターネット的手法への盾

当職は、ネトウヨも、キャンセルカルチャーも、インターネットが生んだ魔物だと思っている。

憎悪し、そして憎悪することで自己を確認し、憎悪のあまり憎悪しないものを憎悪し……そういった「インターネット的」な彼らが当職の心を激しくかき乱した。

当職は少なくとも、「インターネット的」な彼らに一矢報いたい。そして、憎悪に苦しむ人々に、ある強力な盾を与えたいと思う。

憎悪することが正しいことがあっても、憎悪しないことが間違っていることはない

「お前は消極的賛成している」だなんて言葉に惑わされるな。憎悪する彼らは正しいのだろうが、憎悪しないお前もまた同時に正しく、間違っていることなんて一回もないんだから。

全責任はお前を本気で憎悪させない彼らにある。そんな奴らが責任をお前に押し付けても、全力で逃げろ。歩いても、走ってもいいから。

いつか憎悪すら憎悪しない日へ

ネトウヨはあんなに嫌いだったけど、しばらくずっと隣にいると、当職は彼らがいなくなるのは嫌だという感性に至った。ある日突然ネットに検閲が敷かれ、ネトウヨが全員検挙され、東亜板のイカれた人々がいなくなるというのは、それはそれで恐怖を感じるようになった。つまり、憎悪していた彼らを愛せる日が来たんだと思う。

なんでそうできるかと言ったらおそらく彼らを軽蔑しているからだけど、それでも憎悪しないようになったのは大きな進歩だ。

それで、当職は自信を持った。いずれフェミニストだろうと、キャンセルカルチャーだろうと、憎悪する彼らを受け入れられる日は必ず来る。今は当職にはできていないけど……

そこには軽蔑や馬鹿にする感性とか、潔癖には受け入れがたい感情はあるだろうけど、憎悪すら憎悪しないようにしてみせる。

そのための信仰が必要だ。

まとめ

本稿は宗教を開くために書いていたが、途中完全にエッセイ化していたので、軽くまとめたいと思う。

・信仰でインターネット特有の憎悪に対抗する
・「憎悪は尊師のみに」は、憎悪を憎悪せずに、憎悪をやめる
具体的手法である
憎悪することが正しいことがあっても、憎悪しないことが間違っていることはない
・憎悪すら憎悪しないことを一つの目標とする

これを一時的な脳内議事録として、思索を続ける。

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