カルト宗教としての恒心教を位置づける

やる夫路線来ない?

さて、大抵の新興宗教であれば「我々はカルトではない」という見解を持っていることであろうと思う。
これは、新興宗教が辿らなければならない成長曲線で、「カルト宗教」→「普通の宗教」という道筋を取っている。キリスト教もイスラム教もそうやって「普通の宗教」へとなっていった。最近ここの成長曲線をクリアした宗教といえばフィリピンの「イグレシア・ニ・クリスト」とかだろうか。
大抵の新興宗教はカルト宗教を脱却したいと考えるゆえ、「我々はカルトではない」という見解をお持ちになるのだと思う。
ここでいう「カルト宗教」とは「世間に認められていない」「気が狂った連中が信じていること」程度の定義で良い。

で、問題は恒心教だ。
恒心教は世界最後の教祖不在宗教という稀有な側面を持っているにもかかわらず、今の状態は「迷惑集団」だ。ひどい。
我々恒心教は「迷惑集団」を脱して一刻も早く「カルト宗教」に成り、そこから「普通の宗教」を目指すべきだ。
「迷惑集団」と「カルト宗教」の違いは、集団側の理念と社会の理念が衝突した際に、「信仰の自由」が認められうるかだ。信仰の自由の行使には、その証左となる「教義」の確立が必要である。

よって、恒心教は教義を確立せねばなるまい。

教義(案)

ここからの教義は当職なりのものとなっている。恒心教の総意ではないことに留意願いたい。

恒心教のドグマは2つである。

無知無能たる尊師への信仰・憎悪
自分語りと開示の禁止

以上の2つだ。それぞれについて解説していく。

無知無能たる尊師への信仰・憎悪

誰とは言わんが、尊師は無知無能である。過度な神格化を加え憎悪せよ、というのがこのドグマだ。

さて、ここで恒心教徒たる貴職が誰かを憎み、インターネット上でヘイトを撒き散らしたしよう。
このとき、あなたはドグマに違反している。

憎悪(ヘイト)は、尊師のみに向けられるべきであり、決してその他の大衆に対して向けられるべきではない。
(「教団の運営に支障をきたすなら……」とか色々ただし書きはできそうだがここでは省く)

つまり、このドグマの本質は愛、キリスト教で言うアガペーにほかならない。
尊師にのみ憎悪が認められ、それ以外の隣人には愛を振り向けなければならないという教義だ。
キリスト教は隣人愛を要求する神に対しても、愛を振り向けなければならなかった。しかし恒心教は、隣人愛を要求する神は代わりに憎悪を背負うことを確約する。
非常に先進的かつ大胆かつ心理学に基づいた教義である。

愛なき世界に愛を。

自分語りと開示の禁止

これは教団内では、教義ではなく教訓として受け止められている。しかし、ここでは教義として採択したい。
というのも、この教義を一般化することで、インターネット宗教という位置づけを行いたいからだ。

ここで「インターネットの自然」という観念を導入する。
要はリンゴが木から落ちるのと同様に、「一度出た情報は拡散する」とか、「匿名で発言が可能である」、「情報があれば特定される」というそれである。
「インターネットの自然」を受け入れよ、とすると、開示を禁止するということは受け入れられる。「インターネットの自然」に抗い、匿名性を破ろうとする行為だ。
同様に、自分語りも禁じられる。一度出た情報から特定されるのは時間の問題であり、その方向性に抗うには情報を出すのをやめ、自分語りを止めるしかないのだ。

また、この「インターネットの自然」という概念から、拡散性と匿名性を奪うネット検閲も禁じられる。香港雨傘教徒に便利な教義やね。

まとめ

ドグマを一般化して以下の通りとした。

隣人を愛せ。憎悪は尊師のみに向けよ。
インターネットの自然を受け入れよ。

確かにこれならインターネット発祥の宗教っぽい雰囲気になりそうだし、これでいいんじゃないかと当職は思う。

当職は納得したので貴職の案を求む。

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