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怪談市場 第三十六話

『アスリート金次郎』

D君は、とある地方の旧家で生まれ育った。

彼自身は自分と弟との2人兄弟だが、父親は弟四人、妹2人の7人兄弟である。年末年始ともなれば、独立した弟や、他家に嫁いだ妹たちが帰省し、家の中は一気に賑やかになる。D君にとっての伯父さんや伯母さんだ。従兄弟たちも同行するので遊び仲間も増える。D君にとっては大歓迎だ。

1年ぶりに再会した子供たちが広間でボードゲームやUNOに興じるうち、お勝手では夕餉の仕度が整い、やがて大人たちの宴会が始まる。乾杯が済み、一通り近況報告が終わってグラスの中身がビールから焼酎に変わる頃、いい具合に酔いも回って、今年もまたシゲ伯父さんの怪談話が始まる。

「俺たちの通っていた小学校には、呪いの二宮金次郎伝説が語り継がれていたんだ」

語り出すシゲ伯父さんの表情は真剣そのものだが、他の大人たちは、いや子供達までが、笑いをかみ殺している。

(またその話かよ)

誰もがそう考え、呆れているが、不思議と何度聞いても飽きない話なのだ。

シゲ伯父さんの言う「呪いの二宮金次郎伝説」とは、次のような話である。

校庭の片隅、木造校舎の影に隠れるように、ひっそりとたたずむ二宮金次郎の石像が、ときおり走り出すというものだ。学校の怪談としてはありふれた部類である。石像に対して暴言を吐いたり、石をぶつけたり、たとえ不可抗力でドッジボールが当たったとしても、ひとたび金次郎を怒らせた者は後日、彼から追いかけられるという。放課後の廊下、下校途中の田んぼ道、クワガタを取りに行く早朝の山道、場所は様々だが、決まって独りで歩いているとき、怒りの金次郎は現れる。

背後に微かな足音を聞いた気がして振り向くと、遥か道の彼方から駆け寄る人影が目にとまる。その人影はみるみる近づき、すぐに二宮金次郎の石像だと判明する。薪の束を背負い、書物に目を落としたおなじみの姿勢のままに、両脚だけが目にもとまらぬ速さで地面を蹴り、猛スピードで接近する。恐怖にかられ全力疾走で逃げ出しても無駄な抵抗だ。金次郎の足音は加速度的に背後まで迫る。

そして追いつかれた瞬間、ちょっとした悲劇に見舞われる――背後から突き飛ばされて転ぶのだ。命に関わるような怪我はしないが、肘や膝を擦りむいたり、捻挫したりはする。ひとたび金次郎の怒りを買ったが最後、誰ひとりその俊足から逃れた者はなかった。

「そんな伝説を信じた子供たちは皆、金次郎の呪いに恐れおののき、誰も近寄ることはなかった。ただ1人、俺以外はな!」

そう言ってシゲ伯父さんは胸を張る。当時、小学4年生だった彼は、5年生、6年生を差し置き、学校で一番足が速かった。中学へ進学すると陸上部に入り、400メートル走の選手として県大会に出場したほどだから、その実力はすでに芽生えていたのである。走りでは誰にも負けない。いや、負けてはならない――その自信と誇りをかけて、シゲ少年は金次郎に勝負を挑んだのである。

「俊足バトルに持ち込むには、まず金次郎を怒らせなければならない。苦労して石の台座にのぼった俺は、金次郎の手にする書物の上に週刊少年ジャンプをのせた。しかも、とりいかずよし先生の『トイレット博士』のページを広げてだ。勤勉の象徴である金次郎にとって、これ以上の屈辱はあるまい。案の定、ヤツは激怒した。2日後の早朝、突然としてバトルは始まったのだ!」

その朝、シゲ少年は母親から豆腐屋への使いを言いつけられた。食料品店ではパック入り豆腐も並び始めていたが、個人経営の豆腐製造店へ鍋や桶を手に出向き、店頭で購入する習慣もまだ残っていた。豆腐屋は隣の集落にあり、真っ直ぐな田んぼ道を1キロほど往復しなければならない。

その、帰り道。

木綿豆腐2丁の沈む水を張った鍋を両手に掲げ、サンダル履きのシゲ少年がまだ朝靄の漂う、ひと気のない田んぼ道を中程まで歩いた頃、背後で微かな、それでいて軽快な足音が響いた。胸の高鳴りを抑えて振り向けば、朝靄ごしに急接近する人影――薪を背負い、書物に目を落とした姿勢のまま、脚だけが猛スピードで駆動するシルエット。

「ついに現れたな金次郎、勝負だ!」

金次郎に背を向け、全力でダッシュするシゲ少年。呪いへの恐怖と、ライバルへのリスペクト。相反するふたつの感情がせめぎ合い、いやがうえにも気分は高揚する。だが、最高潮に達したテンションとは裏腹に自分の走りが満足できない。いまひとつ、スピードが上がらない。背後で金次郎の足音が、着実に距離を縮めている。

「この状況は、不利だ!」

シゲ少年はやっと気付いた。水を満たした鍋を持ち、サンダル履きの足では理想のフォームで走れないことを。金次郎の足音は、すぐ背後まで迫っていた。

「このままでは負ける……よーし、加速装置!」

とは言っても、鍋と豆腐を放り出し、サンダルを脱ぎ捨てて裸足になっただけだ。それだけでも、シゲ少年は急激にスピードアップした。全身にGを感じるほどに加速した。水を得た魚のごとく走り出したシゲ少年の背後、金次郎の足音が次第に遠のく。やがて自宅が見えてくる頃には、追跡の気配は完全に消えた。無人の田んぼ道を振り返ったシゲ少年は、ガッツポーズで勝利宣言をする。

「ヨッシャー、俺の勝ちぃ!」

次の瞬間、風を切る音がして、額に激痛が走る。衝撃で尻もちをついたシゲ少年の足元に、細い木の枝が落ちる。長さは大人の肩幅ほどだ。

「これは、薪だ……金次郎が背負ってる薪だ!」

その日、鍋と豆腐とサンダルを捨てたシゲ少年は、両親からこっぴどく叱られたのだった。

「いやー、金次郎は俊足だけじゃねえ。遠投力も半端ねえ!」

しみじみと言って話を締めくくるのも例年通りだ。そんなシゲ伯父さんを、他の伯父さん伯母さんも、従兄弟たちも、そしてD君も、ホラ吹き呼ばわりしていじり、笑いものにして、宴はなおも盛り上がる。

「ウソじゃねえって、ホントだよ!」

むきになるシゲ伯父さんの酔った顔。その額にことさら赤く濃く、細い棒で殴られたような痣が浮かびあがっていることに、D君は気付いた。

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