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怪談市場 第二十二話

『遠い盆踊り』

クラス会で、担任だった島崎先生(仮名)から、こんな話を聴いた。

当時、先生は小学5年生。舞台は昭和40年代の田舎町だ。春休みが明けた始業式の日、島崎少年の学級はざわついた。この春に赴任してきた新人教員が、彼らのクラスの担任に決まった。名は紀野祥子(仮名)。大学を出たばかりの、美しい女性教諭だった。

それまで、島崎少年の通う小学校で一番若かったのは30代前半の男性教師。女性教師にいたっては母親か祖母の世代ばかりだ。若く、美しく、優しくて品のいい紀野先生は、男子のみならず女子にとっても憧れの対象となった。島崎少年もその例にもれなかった。いや、友達のように気軽に彼女の魅力を話題にすることがないぶん、むしろ秘めた想いは強かった。といっても、まだ恋愛感情を抱く年頃ではない。テレビの歌番組で見るアイドルたちへの憧れとも違う。もしかしたら、女の兄弟がいない島崎少年は若き担任を、姉のように慕っていたのかもしれない。

紀野先生は地元の出身ではなかった。耳にした地名は県内でも有数の都市部。国鉄の駅名にもなっている。ほとんどが農村を占める、島崎少年の通う小学校の学区に比べれば大都市だ。この春から紀野先生は、M寺の近くへアパートを借り、独り住まいをしているらしい。M寺は町一番の大きな寺で、毎年夏には大規模な盆踊りが催される。商店街は遠く、店といえば雑貨店と駄菓子屋が点在するだけの退屈な田舎町。年に1度の盆踊りは子供たちだけでなく、大人たちにとっても心躍る大イベントだ。

普段は辛気臭く、広いだけが取り柄の境内に、この日ばかりは紅白の飾りをまとった櫓が組まれ、列をなす提灯に火が灯され、様々な出店が並んで、太鼓や音楽が鳴り響き、老若男女が夜更けまで踊り、はしゃぎ、戯れる――11才の持てるボキャブラリーすべてを駆使し、島崎少年は紀野先生に、M寺で開催される盆踊りの魅力を伝えた。

「楽しそう。先生も絶対に行くわ。夏が待ち遠しい」

そんな紀野先生の言葉が、どこか自分に寄せられた期待のように思えて胸が躍った。

やがて紀野先生と、多くの子供たちが待ちわびた夏が来た。だが夏休みが近付いて短縮授業が始まると間もなく、紀野先生は学校を休んだ。担任外の年老いた男性教員が代理で教室に現れ、「紀野先生は体調を崩されてお休みします」と言って淡々と授業を進めた。確かに、そのころ天候が不順で寒暖の差が激しく、夏風邪で寝込む友人も少なくなかった。紀野先生が欠席を続けたまま、学校は夏休みに入った。

待ちに待った楽しい夏休みのはずなのに、島崎少年はちっとも楽しくなかった。いままでは登校すれば、ほぼ確実に紀野先生と会えた。優しい笑顔と美しい声に触れることができた。だが夏休みになったら登校できない。無理にしたところで学校に会いたい人はいない。

(あと40日も教室で紀野先生に会うことができない)

そう思うと憂鬱でたまらない。誰かを愛したがために辛くなる夏休みを、島崎少年は初めて経験した。唯一の希望はM寺の盆踊り。紀野先生は「絶対に行く」と言った。お盆までには、さすがの夏風邪も治まるはずだ。

そして迎えた盆踊りの当日、島崎少年は夜を待ちきれず、日が沈む前にM寺へ向かった。

盆踊りは地域住民のレクリエーションであるとともに、先祖の霊を供養するための宗教的儀式である。また、若い男女が巡り合い、性的な関係を深め合う場でもある。そんな民族学的背景などは知る由もない。1年のうち今日だけは、子供も夜の外出を許されるハレの日で、聖夜で、お祭りだ。

M寺へ着くころには日も暮れかけ、境内では盆踊りの準備が整っていた。櫓に太鼓が据えられ、提灯の明かりが灯り、屋台はアセチレンランプに火を入れて営業開始だ。仲のいい同級生も集まり始めた。やがて夜の帳が降りると、町長の挨拶を経て本番。境内が音楽と光と躍動感で飽和状態となる。友達と一緒に夜店を冷やかしたり踊りの輪に見惚れたりしながらも、片方の目は常に紀野先生の姿を探していた。そのせいか、1時間もする頃には友達ともはぐれた。気付けば夜の闇は深く濃く、人出も大幅に増えていた。

ふと島崎少年は、人混みの向こうに紀野先生の姿を垣間見た気がした。

白地に青い縞の浴衣の若い女性。提灯の薄明かりに照らされた姿が明滅するように、踊り歩く人と人との間で、隠れては見え見えては隠れする。顔形がはっきり確認できないのがもどかしい。大人たちとの身長差が埋まるはずはないと知りながら、それでも背伸びして目を凝らす。と、浴衣の女性も申し合わせたように伸びあがり、笑顔で手を振って見せた。確かに、島崎少年に向かって手を振った。

(紀野先生だ。間違いない。やっぱり来てくれた)

真っ直ぐ駆け寄りたいが、2人の間には櫓を囲んで踊る人の群れが円形の壁を形成し、強行突破を拒んでいる。仕方なく島崎少年は見物の人込みをかき分け、櫓を大きく迂回して紀野先生がいたと思しき暗がりにたどり着いた。だが青い縞の浴衣の女性は見当たらない。さほど時間はたっていないはずだが、まるで消えてしまったかのようだ。

(さては、ふざけてどこかへ隠れたのかな?)

からかわれたかと思うとむしろ嬉しく、島崎少年は嬉々として周辺を捜しまわった。だが喜んでいられたのも最初の5分ほど。10分が経過すると困惑し、30分が過ぎる頃には不安がこみ上げた。

(見間違いだったのか? いや、あれはたしかに紀野先生だった)

盆踊り会場をすべて探し、裏の墓地を確認し、周辺住宅地の裏路地までさまよった。だが必死の探索にもかかわらず、紀野先生は二度と見つからないまま、その年の盆踊りが終了した。先生を見つけられなかった失望と不安に、祭りの後につきものの寂寥感がないまぜになって、島崎少年は涙を堪えながら閑散とした境内を後にした。

夏休みが明けた始業式の日、教室へ現れたのは、1学期の末に病欠した紀野先生の代理を務めた、あの老教師だった。

「紀野先生はご都合により退職されました。2学期からは、私が担任を努めます」

それだけ言って老教師は淡々とホームルームを始めた。それきり紀野先生の話題には触れず、他の教師に訪ねても「ご都合で」の一点張りだ。だが、いくら事情を伏せようとしても狭い村社会のこと。噂話はその日のうちに、子供たちの耳まで届いた。

7月も半ばを過ぎて短縮授業が始まったある日、紀野先生は突然病に倒れて入院。病状の進行が早く、医者も手をこまねいている間に、8月の声を聞くと間もなく亡くなったらしい。

女子の中にはこれ見よがしに涙を流す者もいたが、多くの同級生は悲しみを捉え損ね、成す術もなく呆けるしかなかった。人ひとりの人生を正当に評価して死を悼むには、11才は幼すぎた。とくに島崎少年の胸には“不可解”が充満し、“悲しみ”の付け入る隙はなかった――紀野先生が8月の上旬に他界したのであれば、盆踊りで見かけた先生は誰だったのか?

(見間違いなんかじゃない……毎日毎日、あんなに見つめていた先生を、見間違えるはずなんてない)

そう思い続け、時は流れた。

島崎少年は、やがて島崎青年になり、紀野先生への憧れが影響したか教職の道に進んで、島崎先生となった。

世の中も変わった。高度成長を経てバブル、そしてデフレ。失われた10年、そして20年。それでも暮らしは当時より豊かになった。少なくとも便利にはなった。農村が都市になることはなかったが、メディアと物流インフラが過剰なほどに進化した。どこにいようが、情報も商品もサービスも向こうからやってくる。お楽しみには事欠かない。毎日がイベントだ。年に1度の盆踊りも、その中のひとつとして埋もれていった。

それでも島崎先生は毎年盆踊りに足を運んだ。東京の大学に進んでも、地元に戻って教師になっても、結婚して子供ができても、毎年盆踊りに出向いた。そして、あの日のように人混みの中で紀野先生を探すのである。楽しいイベントだった盆踊りは、あの11才の夏から宗教的儀式となった。といっても、亡くなった紀野先生を弔うためではない。遠い少年時代、1人の女性に憧れた、自分の想いを弔うための儀式である。そして忘れないための儀式である。

だがM寺の盆踊りは、4年前の夏を最後に廃止となった。世代交代をした近隣の若い住民たちから、「盆踊りの騒音をなんとかしろ」との苦情が相次いだためだ。

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