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怪談市場 第四十話

『蟹』

シゲユキ君(仮名)は子供の頃、珍しいカニを捕まえたことがある。

小学4年生の夏休み、父親と弟の3人で水族館に行った。母親は生まれたばかりの妹の世話で家に残り、同行していなかった。それでも久しぶりの遠出に兄弟は大喜びだった。

午前中いっぱい水族館を見て回り、遅い昼食に母親が持たせてくれたおむすびを食べると、午後のひと時を磯遊びに興じた。お盆も過ぎて、海水浴をするには土用波やクラゲが心配だったし、朝から曇り空でお世辞にも好天とは言えない。さいわい水族館の目の前は海。国道を渡るとそこは岩場が小規模な湾を形成していて、磯遊びにはもってこいだった。すでに何組もの家族が磯遊びを楽しんでいる。

雲は低いが波もなく、風も穏やか。潮だまりでは小魚やイソギンチャク、巻貝や小型のカニにヤドカリに、遊び相手に不自由はしない。ポケットサイズの「海辺の生き物図鑑」を持ってきたので、生き物を見つけると片端から調べ、名前をつけていく。シゲユキ君も弟も、ついでに父親も、時の経つのを忘れて遊んだ。

帰り際、シゲユキ君は何気なく裏返した石の下に奇妙なカニを見つけた。

潮だまりに棲むカニは甲羅の幅がせいぜい3cmほどの小型だったが、それよりふた回りほど大きい。厚みもあってずんぐりした形は、生まれたばかりの妹の握りこぶしを連想させた。サイズの割に爪や脚は短く、動きも鈍い。全体的に青みがかったピンク色で、甲羅には産毛を思わせる藻を生やしていた。裏返すと、腹部に泣き笑いした顔のような模様が浮かんで、どことなくユーモラスだった。いくら図鑑のページをめくっても、似たようなカニの記載はない。

「もしかしたら新種のカニかもしれないな。飼ってみようか」

父親も生き物が嫌いではなかった。カニは海水で湿らせた海藻と一緒にビニール袋に入れて持ち帰った。乾燥を防げるし、ときおり袋の口を開ければ酸欠になることもない。

遠く海を離れ、シゲユキ君の家に連れてこられたカニは、洗面器に少量の海水を張った居住空間を与えられた。予備の海水はペットボトルに詰めて持ち帰った。2、3日はこれでしのぎ、その間に人工海水や水槽を用意する手はずだった。

しかしその夜、皆が寝静まった頃、カニは洗面器から脱走し、行方知れずとなってしまった。

朝になって気付き、家じゅうを探しまわったが、タンスの裏に隠れたか流し台の下にもぐったか、見つかることはなかった。水気のない家の中へ迷い込んだら遠からず干からびて死ぬのは明白だ。シゲユキ君と弟はもちろん、父親さえ落胆を隠せなかった。それでも当時の家庭は生まれたばかりの妹を中心に回っており、逃げたカニの存在はすぐに忘れた。

それから3日ほどがすぎた夜更けのこと。シゲユキ君は微かな物音で目を覚ました。かさこそと、虫が這いまわるような音。足元に丸まったタオルケットを元に戻しがてら、2段ベッドの上段で身を起こし、弟と共有の子供部屋を見下ろす。消えた蛍光灯に代わって豆球の乏しい明かりが薄赤く照らすカーペット敷きの床、壁に沿って何かが移動していた。

(カニだ!)

喉から飛び出しかけた声を、シゲユキ君は咄嗟に飲み込んだ。驚かせてはいけない。そっと、ゆっくり、2段ベッドの梯子を下りて、再び床を見回す。どこへ隠れたのか、すでにカニの姿はなかった。二段ベッドの下の段では弟が寝息を立てている。これから家探しするわけにもいかない。それでも、落胆よりは安堵が大きかった。

(へー、カニってけっこう水なしでもイケるんだ)

生きていれば、また見つける機会もあるだろう。希望を胸に床についたシゲユキ君だが、朝早くに弟の泣き声で起こされた。聴けば、大切に買っていたカブトムシが死んだという。見ると、ただの死に方ではない。胴体だけが消え失せ、角と脚と羽が散らばっている。まるで食い散らかされたようだ。弟によれば、寝る前はピッタリ閉じていた飼育ケースの蓋が、少しずれていたそうだ。騒ぎを聴いて父親も子供部屋に駆け付け、実況見分したうえで判断を下す。

「家にネズミでも入り込んだかな」

そのひとことで、シゲユキ君の不安が膨張した――カブトムシを食うネズミなら、せっかく生き延びたカニも食ってしまうかもしれない――だがそんな危惧をよそに、カニは生き続けた。毎夜毎夜、家の中を這いまわる足音を、シゲユキ君は耳にした。トイレへ行く途中の廊下、水を飲もうと赴いた台所、誰もいないはずの茶の間。音を聴いて駆け付けても姿は見えない。人の気配を敏感に察知して隠れてしまうらしい。その音は、日ごとに大きくなっていく気がした。最初は「カサカサ、コソコソ」と虫が這う程度の音だったが、10日ほどが経過した昨夜などは「ガリガリ、ズルズル」と引っかくような引きずるような、耳障りな音に変化していた。

その間、ネズミらしき被害はやはり毎晩のように続いた。場所は主に台所と茶の間。作り置きの総菜や食べ残したおかず、生ゴミなどが荒らされていることに、朝になって気付く。

変化は家の周囲にも及んだ。シゲユキ君の家には数匹のヤモリが棲みつき、夜毎に壁へ張り付いて羽虫を狙い、時に可愛らしい声で鳴く。その鳴き声が、聞こえなくなった。朝夕に鳴いていたアマガエルも沈黙している。ベランダには毎朝ハトが羽を休めに来るが、ここ数日、姿を消している。

妙に静かな日々が、ひと月近く続いたある晩、事件は起きた。

深夜、闇を引き裂く悲鳴が家じゅうに響いた。生まれたばかりの妹の声だ。火が点いたように泣いている。刺激君は2段ベッドから飛び降りて子供部屋を飛び出した。妹は別室で両親とともに寝ている。

「なにかあったの?」

声をかけ、両親の寝室の引き戸を開けた。その隙間から何かが這い出し、シゲユキ君の足元を素早く抜け、廊下の闇に消えた。

カニだった。

潮溜りで捕まえ、家の中で逃げた、あのカニ。全体的に青みがかったピンク色。ずんぐりした甲羅に短い脚。異常なのは、その大きさだった。捕まえたときには赤ん坊の握りこぶし大だったのが、子供の頭ほどに成長している。甲羅に生やした藻は、黒々とした髪のように伸び、床を引きずっている。泣き笑いに似た腹部の模様が一瞬、シゲユキ君を見上げた気がした。

妹は足から血を流していた。ふくらはぎが一カ所、プリンをスプーンですくったように、肉がえぐられていた。母親は半狂乱で「カニが、カニが!」とわめいていた。事情を把握していない父親は寝ぼけ眼でうろたえている。

駆けこんだ救急病院で、傷口を数針縫った。大事には至らなかったが、妹は3日間の入院することとなる。その間に、父親は業者を呼び、害獣駆除を依頼した。カニの姿を見ていない父親は、「アライグマでも忍び込んだのだろう。カニはそんな急に大きくならないし、人を襲ったりもしないよ」と、シゲユキ君や母親の言葉を取り合ってくれなかった。

父親の意見は半分正しいとシゲユキ君は思った。あれはカニではない。カニに擬態した“ナニか”だ。ネズミなど最初からいなかった。弟のカブトムシも台所の生ゴミも食べ残しも、食い荒らしたのは、あのカニに似た化け物だ。我が家を巣に庭にも這い出し、ヤモリやアマガエルを貪り食ったのかもしれない。そうして巨大化し、ついには妹まで狙ったのだ。

業者が散布した薬剤が効いたらしく、深夜に何者かが這い回る音はなくなった。そのかわり近所で飼い猫が立て続けに失踪する騒ぎが起こったが、シゲユキ君は深く考えないことにした。

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