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怪談市場 第三十一話
『押し花』
マサエさん(仮名)が20年ほど前に体験した話である。
当時のマサエさんは、まだ結婚3年目。ご主人と関東地方某所の団地に住んでいた。
夫の勤め先は業績が順調、マサエさん自身も健康な長男を産み、育児に追われていた。夫婦仲もよく、絵に描いたような幸せな結婚生活を送っていた。
ただ一点だけ気がかりなことがあった。団地の同じ棟に、少々問題のある人物が住んでいたのだ。
自殺志願者である。
古くから1階上に住む中年女性のケイコさん(仮名)は、マサエさんがその団地に住んでいた3年間だけでも、リストカット5回、首吊り2回、睡眠薬の多量服用3回、ガスと練炭が各1回と、10回以上の自殺を試みている。
よほど強運の持ち主らしく、いずれも未遂で終わっていた。
しかし本人にとっては不本意な結果の連続であり、そのコンプレックスが自殺衝動に拍車をかけていた。近隣住民も「1日も早く生きる希望を取り戻してほしい」と願う一方で、「万が一巻き込まれてはたまらない」との不安もあった。事実、ガスと練炭のケースでは、一歩間違えれば爆発や火災が発生していたのだ。
はた目から見れば、ケイコさんがなぜそんなに死にたがるのかが理解できない。御主人は真面目で家庭にトラブルはなく、本人だって心はともかく体は健康なのだ。近隣住民は首を傾げ、脅えながらも、心配してなにかと気にかけていた。その甲斐あって、たとえ御主人が仕事で不在な日中にケイコさんが自殺を試みても、発見が早く大事に至らずに済んでいた。
だが、とうとうケイコさんの望みがかなってしまった。
深夜、5階建て団地の屋上から飛び降りたのだ。
重い衝撃音が響き、棟が微かに振動した。住民の多くは車の自損事故と思ったほどだ。
落下したケイコさんの身体は、脚から団地前を走るコンクリートの通路へ激突した。その衝撃で腰から下の骨は粉々に砕け、下半身は不定型の肉の塊と化していたという。それでも、頭部と胸部の損傷は軽かったため死に切れず、苦痛に泣き叫ぶ声が団地中に響いたそうだ。
救急車で病院に運ばれたものの、夜が明ける前に亡くなった。
ケイコさんが落ちた通路には、いくつもの花束が置かれた。近隣住民は助けてあげられなかったことを悔やんだが、トラブルメーカーがいなくなって安堵もしていた。
ケイコさんが亡くなって3日めの夜だった。
帰宅した夫が入浴している間に夕食の支度を済ませたマサエさんは、日本酒を切らしていることに気付いた。夫は晩酌に上燗の酒を銚子2本を空けるのが日課だ。ちょうど風呂を出た夫に、眠っている長男を見ているように頼み、マサエさんは団地前に店を構える酒屋を目指して部屋を出る。すでに店は閉まっている時間だが、店頭の自販機でカップ酒が売っている。今夜はそれで我慢してもらおう。
小銭を握りしめて階段を1階まで下り、玄関を出る。そこで足が止まった。視界の隅に人影を認めた。首を巡らせ、暗がりに目を凝らす。
団地の前を走る通路に、誰かが座っていた。
(もう夜8時を過ぎているのに……酔っ払いかしら?)
背を向けて、あぐらをかく人影のかたわら、なにかが落ちている。
(花束――まさか!?)
マサエさんは気付いた……そこが、ケイコさんの墜落現場だということを……そして、人影は座っているのではなく、下半身が潰れているのだと。
足がすくみ、全身に鳥肌が立った。恐怖心を感知したように、人影が首だけで振り返る。その顔はまぎれもない、3日前に死んだケイコさんだった。
「ねえぇぇ、マサエさぁぁん……嫌だわぁぁ……あたしぃぃ、まだ生きてるみたいなのぉぉ……」
ケイコさんは身をよじり、通路に両手をついて腕だけで這い、マサエさんに迫る――不定形の肉の塊と化した下半身を、大型ハ虫類の尾のように引きずって。
マサエさんは身を翻し、玄関に飛び込んで、いま下ったばかりの階段を全速力で駆けあがった。その背後から、階段を手のひらでベチャベチャと叩く音に混じってケイコさんの声が追ってくる。
「どうたらぁぁぁー! 死ねるのかしらぁぁぁー?」
すりガラスに爪を立てるような声に追いつかれる寸前、マサエさんは自宅のドアを潜ることができた。夫には、晩酌を諦めてもらった。眠れないままに夜明けを待ち、マサエさんは叩き起こした夫と連れ立って1階まで下りた。玄関から半分顔を出し、問題の通路を覗き見る。
団地の住民が捧げた花束は、潰れていた。
まるでテニスコートをならすローラーの下敷きになったように。通路に貼り付けた押し花のように。
(肉体が死んでも、ケイコさんの魂は死ぬ直前のまま、苦しみ続けているのだろうか?)
そんなことを考えると、あの団地で子供を育てるのが怖くなった。マサエさんは夫を説き伏せ、恐怖体験から1週間もせずに団地を引き払い、隣町のアパートへ引っ越した。
しばらくして、マサエさん夫婦はアパートの近所に手ごろな物件を見つけ、ローンを組んで狭いながらも一戸建てを購入。長男は順調に育って、この春に成人式を迎えた。
気付けばあの事件から、早くも20年の時が流れた。
だがその20年間、歩いて30分もかからない団地に足を向けたことは、1度たりともなかった。
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