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怪談市場 第二十三話

『魂呼ばい』

最初の事件は高校2年の秋だった。

晃子さん(仮名)が昼休みを利用して訪れた図書室で、同行した友人の早苗さん(仮名)が突然、倒れた。心臓に持病があり、これまでも何度か倒れた経験があると本人から聴いてはいたが、実際に発作を目にすると動揺するばかりで咄嗟には動けない。図書室には他に10名ほど生徒がいたものの、彼らも成す術を失って硬直していた。

ただ1人、冷静に、そして速やかに行動したのは現代国語を担当する多岐川先生だった。色白で小柄で華奢で、体が弱く授業も休みがちで、時間があれば読書をしている図書室の主のような女性教諭だ。彼女は早苗さんを介抱しながらも脈や呼吸を確認し、周囲の生徒たちやカウンターの司書教諭に指示を飛ばす。

「すぐに救急車を要請。AEDの準備も急いで。それから内線で保健室へ連絡、養護の先生を呼んで。それから……」

床に倒れた早苗さんをソファーに移す作業を手近な男子生徒に任せると、多岐川先生は図書室を飛び出し、小走りにどこかへ行った。

晃子さんは消防に連絡するため、携帯電話を手に掃き出し窓を抜けて中庭に出た。緊急事態ではあったが、「図書室で携帯電話は使用厳禁」との刷り込みが行動に影響したようだ。119番への通報は初めての経験だったが、たどたどしくも必要な情報を伝えることができた。窓ごしに室内をうかがえば、すでに早苗さんはソファーに移され、司書教諭の手によってAEDの装着が始まっていた。男子生徒は締め出されており、養護教諭も到着している。とりあえず、現段階で出来ることはすべてやった――僅かながら落ち着きを取り戻した晃子さんの頭上から、不意に女性の声が降ってきた。

「モトハシサナエ!」

モトハシサナエ――本橋早苗は、いま図書室で生死の境をさまよっている友人の名だ。声の主を探して頭上を仰げば、屋上の柵から身を乗り出す女性の姿が目にとまる。

「多岐川先生?」

下界で首を傾げる晃子さんの存在などお構いなしに、女性教諭は細い喉を振り絞り、天に向かって叫び続ける。

「モトハシサナエー! モー、トー、ハッ、シー、サー、ナー、エーッ!!」

晃子さんは「なにやってんだ?」と呆れるど同時に、「なるほど」と、心のどこかで納得もした。

多岐川先生の身の回りには、ときおり不思議な現象、奇怪な事件が発生する。そのため一部の生徒からは「お化け先生」やら「幽霊教師」などと呼ばれて親しまれ、また蔑まれてもいる。要するに電波系、不思議系の女性教師だと晃子さんは分類した。

幸い早苗さんの命に別条はなかった。救急車が到着した頃には意識が戻り、会話もできるほどに回復していた。友人を乗せた救急車を見送ると、晃子さんは多岐川先生を問い詰めた。

「先生、さっき屋上で、ナニやってたんですか?」

瀕死の生徒を放置したとしか思えない行動に対し、抗議の意味も含めた問いだったが、多岐川先生には通用しなかった。

「あれはね、“魂呼(たまよ)ばい”という儀式なの」

多岐川先生の説明によると“魂呼ばい”とは、死の床にある者の名を屋根に上って呼び続けることにより、天に昇ろうとする魂を肉体に繋ぎ止める、呪術の一種だそうな。

「けっこう効くのよ」と言って多岐川先生は、少し得意げに微笑んだ。

馬鹿馬鹿しい――晃子さんはそう思った。早苗さんが一命を取り留めたのは速やかかつ適切な蘇生措置とAEDによる電気的な作用だ。呪術の入り込む余地などない。そのときは、そう考えていた。

2度目の事件が起きたのは約半年後の職員室。

年度が変わって晃子さんは3年生になっていた。その日は卒業生が職員室を訪れていた。と言っても、微笑ましい話題ではない。この春に卒業した村越道弘(仮名)という先輩は、大学受験に失敗したことで、元担任をひどく逆恨みしていたのだ。これまでも何度か元担任を訪ねては、自分の学力不足を進路指導の誤りにすり替え、現実逃避を続けている常習クレーマーである。

ただ、この日の村越先輩はいつもと違った。職員室へ乗り込むなり、言葉の暴力の代わりに刃物を振りかざしたのだ。

「どうせ俺の人生、終わったからよ、テメーら全員道連れに死んでやるよ!」

叫びながら大振りの刺身包丁を振り回し、村越先輩は教師たちを追い回した。運悪く職員室へプリントを届けに来ていた晃子さんは一部始終を目撃した。逃げまどう教師、ただ悲鳴をあげるだけの教師、果敢にも説得を試みる教師――職員室はパニック状態だった。

そんな中ただ1人、平常心の教師が存在した――多岐川先生である。

後で知ったことだが、この日は図書室のコピー機が不調で、珍しく職員室へ顔を出し、事件に遭遇したそうだ。

「ロヒチミシコラム!」

突然、多岐川先生の発した意味不明の一喝に、パニック状態の職員室が凍りつく。彼女は凶器を手にした卒業生に詰め寄りながら、呪文めいた言葉を繰り返し叫んだ。

「ロヒチミシコラムー! ロー、ヒッ、チー、ミー、シッ、コー、ラー、ムーッ!!」

いつもの多岐川先生とは違っていた。普段は眠たげに潤んだ両目をカッと見開いている。猫背ぎみの背筋も、シャンとしている。細く弱々しいはずの声に、張りがある。

不意に、魅入られたように硬直していた村越先輩の手から、包丁が落ちた。続いて全身が小刻みに痙攣し、眼球が裏返って白目をむき、糸の切れた操り人形のようにその場へ崩れ落ちた。

暴漢の振るう凶刃に大騒ぎしていた職員室は一転、暴漢の救命措置に大騒ぎとなる。そのときすでに多岐川先生は姿を消していた。幸か不幸か村越先輩は命を取り留め、救急車で搬送された病院において、傷害未遂の容疑で逮捕されている。他に怪我人はなかった。

この一件から晃子さんは、多岐川先生の操る“魂呼ばい”の呪術が、じつは効果があるのかもしれないと考えを改めた。危篤状態だった早苗さんの名を、通常通り呼ぶことで離れかけた魂を呼びもどすことができるとすれば、その逆もまた可能なのではないだろうか。村越道弘――ムラコシミチヒロを逆さまに読めば、多岐川先生が口にした呪文「ロヒチミシコラム」となる。名前を逆に呼ぶことで健康な人間から魂を弾き出す、いわば“魂弾き”のような呪術も成立するのではないだろうか。

気にはなったが、晃子さんが多岐川先生に確認することはなかった。また得意気に、「けっこう効くのよ」などと言われそうで、とても怖かったからだ。

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