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怪談市場 第十二話

『網戸』

大石君(仮名)の部屋で最近、異変が発生している。知らないうちに網戸が開いているのだ。

彼は現在私立大学の2年生で、アパートで独り暮らしをしている。問題の網戸は、6畳1Kのベランダに続く掃き出し窓の網戸である。それが、ここ1週間で5回、気がつくと30cmほど中途半端に開いているのだ。

「自分で閉め忘れたんじゃありませんからね」と大石君は釘を刺す。建て付けのよくない安アパートは、ややサッシが歪んでいる。さらに住人である大石君が掃除に熱心ではないため、レールは慢性的に風が運んだ砂を噛んでいる。開け閉めが困難なので、網戸には滅多に手を触れないと断言する。事実、いつの間にか開いていた網戸を戻すとき、滑りは悪いし耳障りな音を立てるしで、ひどく苦労したという。部屋は1階なので、その気になれば外部からサッシに触れることも不可能ではない。例によって、同じアパートに住む友人たちの悪戯だろうと高をくくっていた。

つい先日、大石君は自分の予測が的外れだったと思い知った。

その夜、大石君はちょっと早いが期末考査に備えてノートの整理をしていた。とはいえ、文机と食卓を兼ねた折りたたみ式のテーブルに教科書を広げたはいいが集中力はすぐ途切れ、ぼんやりと窓に目をやっていた。蒸し暑い夜のこと、掃き出し窓は開け放っている。蚊が入らないように網戸は閉めたままだ。

その網戸が、ひとりでに開いた。

大石君の見ている眼の前で、あんなに開けづらかった網戸が30cmほど、音もなく、滑るように。もちろん、窓の外には誰もいない。風もほとんどない。自分の目を疑いながらも大石君は、ふと懐かしいにおいを嗅いだような気がした。茹でたてのトウモロコシが湯気とともに放つ、甘い香り。

「お婆ちゃんだ」大石君は無意識に呟いた。

彼の実家は、独り暮らしのアパートから電車を乗り継いで2時間ほどの距離に位置する。典型的な田舎町の兼業農家だ。中学、高校時代は庭の隅の“離れ”を勉強部屋にしていた。もとは農機具を収納する倉庫の一画を改造した離れだった。梅雨が明けて暑さが本格化し、トウモロコシの季節になると、祖母は裏の畑で収穫したばかりのトウモロコシを茹で、真っ先に孫の大石君へ届けるのだ。母屋の台所から裏口を抜け、庭を駆け足で突っ切り、離れの網戸を開いて「トウムギうでだがら食べろ」と金笊に盛った、まだ湯気の立つトウモロコシを置いていく。ひとりでに開いた網戸のスピードが、幅が、そんなお婆ちゃんとトウモロコシの記憶を鮮やかによみがえらせた。たったいま、祖母がトウモロコシを届けてくれたようだった。「トウムギうでだがら食べろ」、そんな声が聞こえてきそうだった。

「虫の知らせって、あるじゃないですか。僕、なんだか心配になって、すぐ実家に電話したんです。そしたら……」

「そしたら?」

話を急かす私に、大石君は溜め息まじりに答えてくれた。

「ちょうどそのころ、お婆ちゃんが倒れて危篤状態で――なんて展開なら話としてオチがつくんですが、なにも異常はありませんでした。いまもピンピンして畑仕事をやってるそうです。すみません、怪談っぽくなくて」

「謝ることはないよ。お婆ちゃん、元気でなによりだ。それに、ひとりでに網戸が開いた時点で、もう十分に怪談だよ」

期末考査が済んだら、大石君は久しぶりで実家に帰るつもりだと言う。もうすぐ、トウモロコシの季節だ。

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