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怪談市場 第三十五話

『旧道の息づかい』

地方都市で工場に勤務するNさんから、こんな話を聴いた。

その日は午後勤のシフトで、通常であれば22時にはあがれるはずだったが、運悪く残業を言い渡されたため、帰路に就いたときにはすでに日付が変わっていた。

車通勤のNさんは仕事場への行き帰り、5年ほど前に開通した片側2車線の広々としたバイパス道路を利用している。だがその夜は深夜の道路工事にぶつかり、警備員の誘導等に従って迂回路へとハンドルを切らなければならなかった。

(不意の残業といい、ついていないときは、こんなものだ)

諦めて回り道を進むと、やがて見覚えのある通りに出た。

旧道である。

バイパスが開通する以前、Nさんはその旧道を通勤に利用していた。

(なんか、懐かしいな)

しばらく車を走らせると、バイパスへ戻る順路を示す看板が現れたが、Nさんは久しぶりに旧道を通って帰宅することにした。

乗用車がやっとすれ違えるだけの、ゆるく蛇行した狭い道。センターラインも歩道もない。申し訳程度の路側帯が設けられてはいるが、お世辞にも有効に機能しているとは言い難い。両側は古い民家が立ち並び、生け垣やブロック塀が道端にそびえている。細い脇道も多く、死角だらけだ。街灯も少なく、夜は見通しも利かない。

当然、事故も多い。

「おっと、ここ危ないんだよな」

とある交差点の手前、Nさんは慌ててブレーキを踏んだ。一時停止ではあるが、標識も道路標示もわかりづらく、気付かずに通過してしまうドライバーも多い。停止線ぎりぎりでNさんの車は止まる。

その拍子に、なぜかエンストしてしまった。

オートマのエンストなど珍しいこともあるものだ――最初は軽く考えてイグニッションを回すが、エンジンはかからない。ガソリンは半分以上残っている。セルモーターは回っているのでバッテリーも異常はない。だが、何度試しても始動はかなわなかった。

(JAFを呼ぶか、もう少し様子をみるか……)

いずれにしても、その前にやることがあった。深夜で人通りがないとはいえ、狭く見通しの利かない道の真ん中に車を止めていたら、いつ追突されるか分からない。Nさんはハザードを出し、トランクに積みっ放しの三角停止板を出そうとドアを開く。

と、ヘッドライトに老婆の姿が浮かんだ。

車を降りたまま、Nさんは動くことも忘れて老婆を見つめた。その時点で、恐怖は感じなかった。

(こんな夜中に犬の散歩か?)

そう思っただけだ。犬の姿は確認できないが、「ハッハッハッハッ」という犬特有の、忙しげな息づかいが闇に響いている。犬が嫌いでないNさんは辺りを見回し、その姿を探した。しかし犬などどこにも見えない。だが、息づかいは確実に近寄ってくる。

「ハッハッハッハッハッ」

怪訝に思って老婆に目を戻せば、なぜか上目づかいでNさんを睨んでいる。そうしている間にも犬の息遣いは迫ってくる。声の調子から察するに、かなりの大型犬らしい。プンと、獣臭が鼻をついた。ようやくNさんは恐怖を覚えた。見えない犬の荒い息遣いはもう目の前だ。

「ハッハッハッハッハッ」

「ハッハッハッハッハッ」

1匹ではない。2頭いるらしい。息が至近距離に迫り、やっと気付いた。2頭の大型犬が寄り添って獲物を――Nさんを追い詰める。

合計4本の太い前足が肩にかかり、いまにも押し倒される――そんな強迫観念に襲われた次の瞬間、あれほど切迫していた犬の息遣いが急に無くなった。まるでNさんに興味を失ったように、視えない2匹の大型犬は、濃厚な獣臭と気配を完全に消した。かわりに、「ほっ」と老婆が息をついた。安堵とも失望ともとれる溜め息だった。もうN君を睨んではおらず、表情も和らいでいる。

「ごめんなさいね……あなたじゃなかったみたい」

そう詫びると老婆は、現れたときと同様、唐突にヘッドライトの明かりから退き、闇に消えた。N君は逃げるように運転席へ戻って堅くドアを閉め、無意識にイグニッションをひねる。あれほど沈黙したエンジンが、今度は一発でかかった。急いで左右を確認し、アクセルを踏み込んでその交差点を離脱する。視界の隅で、交通事故の目撃情報を募る看板を見た気がしたが、確認する気にはなれなかった。

それ以来、Nさんが旧道を通ることはなくなった。

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