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怪談市場 第十一話

『人喰い踏切』

弘美さんは、人が電車にはねられる瞬間を、間近で目撃した経験がある。

「あれは高校に入学してまだ間もない頃。下校途中、進行方向の踏切で遮断機が下りたの。日は暮れかけてたけど辺りを見渡せるほどには夕陽が残っていて、自転車をおりた主婦がひとり踏切り待ちをしていた。買い物帰りらしく、ママチャリのかごには丸々太ったスーパーのレジ袋が詰め込まれ、ネギの頭が飛び出ていたのを覚えてる。鳴り響く警報器のリズムに合わせて、肩を左右に揺らしてたっけ。これから愛する家族のために美味しい夕食を作ることが楽しくて仕方がないみたい。私がそう思った瞬間、主婦は突然自転車を放り出し、遮断機をくぐって線路に飛び込んだ。同時に電車が来て……」

そこで弘美さんは意識を失ったそうだ。生きた人間の体が鉄路と車輪に噛み砕かれる様を見ずに済んだのが、唯一の救いだろう。それでも事件は彼女の輝ける青春にトラウマを植え付けた。

「それまであんなに幸せそうだった人が一転して死を選ぶこともある。ちぐはぐな振る舞いをする人の心と行動がわからなくなった。自分の身近な人も、いいえ、他人ばかりじゃなく、自分自身も、突然、死への衝動に駆られて即座に実行するんじゃないかと思うと不安で……」

事件を思い出すたびに弘美さんは、パニック障害の発作で軽い過呼吸を発症するようになった。忌まわしい記憶を避けるため、その踏切には二度と近寄らないことに決めた。その結果、高校への通学はひどく遠周りとなって時間と体力を浪費したが、背に腹は代えられない。

「そんな事情をね、ある日、多岐川先生へ愚痴まじりにもらしたの」

多岐川先生とは、弘美さんが通う高校で現代国語を担当する女性教諭である。色白で小柄で華奢で、体が弱く授業も休みがちで、時間があれば読書をしている図書室の主のような先生らしい。また、ときおり身の回りに不思議な現象、奇怪な事件が発生するため、一部の生徒からは「お化け先生」やら「幽霊教師」などと呼ばれて親しまれ、また蔑まれてもいる。

「それは不便よねぇ」弘美さんの事情を知ると多岐川先生は我がことのように困惑し、ありがたくも迷惑な提案を口にした。「じゃあ先生が一緒に、その踏切を通ってあげる。それなら怖くないでしょ?」

嫌だ。怖い。二度と通るまいと誓った踏切である。しかし無下に断るのも気が引けた。どんな急用をでっち上げて申し出を辞退しようか思い悩む目の前で、先生の帰り仕度はテキパキと進む。

結局、多岐川先生と一緒に帰ることに――問題の踏切を通ることになった。

およそ1年半ぶりに見る踏切は、最後に見たあの日の様子と何も変わらなかった。住宅街をぬって走る私鉄の踏切。秋の日は既に暮れかけ、風景を夕日が包む。嫌でも事件を思い出す。だがパニックに陥ることはなかった。思春期の1年半は心の傷を洗浄するのに十分な時の流れだったのかもしれない。トラウマの毒は薄れたのかもしれない。多岐川先生が一緒であることも、多少は心強いのだろう。

「万が一、死の衝動に駆られても、私がこうして掴まえてるから、大丈夫よ」

右の上腕部に先生の細い指がからんでいるものの、赤子ほどの腕力しか伝わってこないのは少し不安だ。問題の踏切は目前。このまま何事もなく通過できそう――などと甘く考えたが、そうはさせじと遮断機が下りた。先生と並んで踏切待ちをする。他に人はいない。と、背後からパタパタと軽快な足音が近づいてきた。振り返らずとも、子供の足音と知れる。足音はすぐ横で止まった。見れば小さな男の子が寄り添うように立っている。黄色い帽子に紺の園児服、胸には桜の花をかたどったピンクの名札。幼い子供になつかれたようで、少しくすぐったい――弘美さんがそんな思いにとらわれていると、突然その子供が動いた。下り切った遮断機をくぐり、警報が鳴り響く踏切へ駆け込んだのだ。

「危ない!」

反射的に男の子を追おうとしたが体は動かない。多岐川先生はまだ右腕を掴んでいる。さっきまでの弱々しい握力とは違う。か弱い女性の、いや人間の力とは思えない強さ。まるで鉄骨にボルトで上半身が固定されたように身じろぎすらできない。

男の子は踏切を渡り切れず、線路上で“ぺたり”と転んだ。直後、風圧と轟音を伴って列車が駆け抜ける。弘美さんは顔を背けて多岐川先生へ抗議の視線を向けた。左目で子供の救助を邪魔したことに対する抗議。右目で掴まれた腕の痛みに対する抗議。多岐川先生は、怯まない。超然と踏切の惨状を見つめている。いつもは眠たげに潤んでいる両目が、なぜかくっきりと見開かれていた。

列車が通過して、警報が止んだ。目を背けた背後で遮断機の上がる気配。「見てごらんない」先生は踏切を見つめたまま言い放った。かたく目を閉じて弘美さんはかぶりを振る。

「落ち着いて。もう大丈夫だから」

穏やかな声に、目を開いた。右腕を掴んだ先生の握力は子供なみに戻っている。両眼も眠たげに潤んでいた。いつもの多岐川先生の様子に安堵し、恐る恐る踏切を振り返る。

「なにも……ない?」

転んだ子供の上を、確かに列車が通過したはずだ。なのに死体がない。肉片はおろか血の染みひとつ落ちていない。

「チッ!」

呆然とする弘美さんの頭上から、忌々しげな舌打ちが降ってきた。視線を巡らせると、いた。遮断機の開いた踏切ごし、線路沿いに建つ民家の屋根の上、たったいま轢かれたはずの子供が上半身をのぞかせ、悔しげにこちらを睨んでいる。有り得ない。奇跡的に凶暴な車輪をかわし、踏切を突破したとしても、こんな短時間で民家の屋根まで到達するのは不可能だ。多岐川先生も気付いたらしく、首をひねって子供に目を向けると、「シッシッ」と手のひらを振る。子供は後ろ向きでエスカレーターを下りるように、屋根の向こう側へ消えていった。

「踏切にはね、ああいう“嫌なモノ”が棲みついてることがあるの。母性や保護本能につけ込んで人間を喰い物にする“嫌なモノ”がね」

「私の目の前で電車に飛び込んだ主婦も、同じ子供を追って・・・」

「そうよ。だから“突然の死への衝動”なんて、あなたの思い違い。もう恐れることはないの」弘美さんと肩を並べて踏切を渡りながら、多岐川先生は説明した。「それに、あの子供も、生きた人間ではないと分かってさえいれば、この踏切だってもう怖くないでしょ」

そう言って多岐川先生は微笑む。

怖いよ――弘美さんは心の中でつぶやいた。生きた人間ではない“モノ”を「怖くない」と言って笑う先生を、怖いと思った。生きた人間ではない“モノ”が普通に存在する世界を、きっと先生は生きているのだ。

 結局、弘美さんは卒業までその踏切を避け、遠回りの通学を続けたという。

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