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怪談市場 第三十三話

『川下りの夜』

12年前、間中君(仮名)が初めて買ったカヌーで川下りを試みた夜に遭遇した怪異である。

彼は中学のころから椎名誠や野田知佑のエッセイが大好きで、夏休みや連休にカヌー教室へ通うことが何よりの楽しみだった。高校卒業と同時に自動車免許を取り、デザイン関係の専門学校に通いながら必死にバイトして、ついに念願のカヌーを購入した。

当然すぐにでも水に浮かべたい。しかし遠出するには時間が足りない。費用にいたっては致命的だ。カヌーと関連装備品に金を使い果たしてしまった。当初はカヌーにのせる犬も絶対に一緒に買う(飼う)予定だったが、それも諦めたほどだ。

仕方なく、家のすぐそばを流れる利根川を下ることにした。

まだローンが残っている中古車にカヌーを積み、家から20分の運動公園へ乗り付ける。河川敷の駐車場に車を置いてカヌーを下ろす。帰路は友人に上陸地点まで運転してもらう手はずだ。進水式はスーパーで買った安物のスパークリングワインで済ませた。いろいろとしょぼいが、船を漕ぎだせば気分は上々だ。

利根川といっても間中君が艇を浮かべたのは中流域だ。流れも風景も単調で、経験を積んだ今から思えば面白みのない川だが、当時の彼にとってはパラダイスだった。場所によっては数百メートルにもおよぶ川幅、水面と両岸の土手、そして空だけしか見えない解放感を満喫しながら、時を忘れて川を下った。

船上でサンドイッチを詰め込む遅めの昼食を済ませたら、そろそろ野営地を探さなければならない。運よく30分ほどで絶好の場所を見つけた。両岸はずっと芦が密生しているが、大きなカーブの外側にワンド状になった水域があり、その奥だけ砂地が広がっている。なにより、たくさんの流木が打ち上げられていた。

「ラッキー! 焚き火ができるぜ」

思わず間中君は喜びの声をあげる。この御時世、河川敷で焚き火などしようものなら消防署に通報されかねないが、当時はそのへんもおおらかだった。

上陸してテントを設営し、手ごろな流木と焚きつけ用の枯れた芦を確保する。土手の上には小さな小屋のようなものが見えるが、ポンプ小屋か何かだろうと気にも留めなかった。夕方までに間があったのでフライロッドを振ってみたが、何も釣れなかったので夕食は携行食品だ。火をおこすと飯盒で飯を炊き、湯を沸かしてレトルトのカレーと牛丼を温め、「合いがけ大盛り」を豪快にかき込む。

闇の中の熾き火は幻想的でいつまで見眺めていたかったが、カヌーを操作し続けた疲れと満腹とで睡魔に襲われ、まだ8時前だったがテントにもぐってシュラフに包まった。

早い時間に眠ったせいか、深夜に目覚めた。

テントの外、水音が響いている。その音で覚醒したらしい。川の流れは穏やかで、水が音を立てるはずがない。まるで人が川の中を歩いて近づいてくるような音だ。

(川魚漁師かな?)

そんな考えが浮かぶ。昼間の川下りで、岸から伸びる「沈床」を数多く見かけた。岸辺が削られないように流れを調整する、古い石積みだ。沈床はモクズガニの住処になっていて、周辺に川魚漁師がカニを獲るための籠を仕掛けるのだ。間中君も流域の住民だけに、その程度の知識はあった。モクズガニは夜行性なので、早朝に仕掛けを引き上げる。

(もう朝か?)

左手首に着けたままのGショックに目を凝らせば、まだ日付けが変わって間もない時刻。早朝とうより深夜だ。水音の“ヌシ”はやがて上陸したらしく、砂や流木を踏みしめる足音へ変わった。足音は間中君のテントを通り過ぎ、土手を登って消えていく。と、間もなくまた水音が響き、上陸して足音に変わり、土手を登って消える――それを何度となく繰り返した。足音にはそれぞれ特徴があった。地面を踏みしめる重い足取り。着物の裾を引きずるような音。四つん這いで這いずる気配。軽く小刻みな足音は子供だろうか。牛か馬か、家畜の蹄が砂をかく音もあった。すべての足音が川から土手へ向かい、その逆はなかった。

(これって……この世のモノじゃない!)

直感でそう思ったが、根拠はない。だからといってテントの外を確認する勇気もない。ただシュラフの中で震えるしかすべがない。

どれぐらい硬直していただろう。いつしか水音も足音も途絶えていた。もう大丈夫かと外をうかがおうとしたら、再び足音が響いた。ただし今度は向きが逆。土手を下りてくる足音は、テントのそばまで歩み寄り、止まった。耳をそばだてる間中君。テントごしの至近距離で突然、犬が吠えた。

「ひいっ!」

思わず情けない悲鳴を上げた。吠える犬にかぶさって、しわがれた男の声が届いた。

「おい、もう大丈夫だ。出てきてもいいぞ」

恐る恐るテントから顔を出すと、柴犬を連れた老人が立っていた。周囲は靄が漂い、朝が近いのか薄明るかった。犬は吠え続けているが敵意は感じられない。

「チョロ、おとなしくしろ。それにしても、ここで寝泊まり人がいるとは驚いたな」

犬の名は 「チョロ」というらしい。作務衣姿の老人は、痩せているが長身で背筋がピンと伸び、見るからにかくしゃくとしている。

「あの、ここってキャンプ禁止でしたか?」

「そんなことはないが……よりによって、なぜこの河川敷でキャンプしようと思った?」

「流木がいっぱい流れついてて、焚き火の燃料が豊富だから」

「ここは流木以外にも色々と流れつくのさ……」

老人はついて来いとばかりに顎をしゃくり、踵を返した。間中君もテントを這い出し、土手を登っていく老人と犬を追った。土手の上、小屋のようなものの前で足を止めた。昼間はポンプ小屋とばかり思っていたが、それは祠だった。格子戸を透かし見れば小さなお地蔵さまが納められている。視線で問うと、老人が説明してくれた。

「昔は堤防も低く貧弱で、台風が来るとよく決壊したんだ。そのたびに多くの人々が水害の犠牲になった。この河川敷は流れや地形の関係で、水死体が集中的に打ち上げられるらしい」

だとしたら先ほどの水音と足音は、打ち上げられた水死体の魂がさまよう気配だったのか。テント外を確認する勇気など持ち合わせなくてよかった。声なき水死体の群れが行進する様子など目撃したら、到底正気を保ってはいられないだろう。間中君の脅えをよそに、老人の話は続く。

「だから洪水で誰かが行方不明になると、身内の人間は真っ先にここへ探しに来たものさ。それでも引き取り手のなかった仏さんが何十人も、この土手の下に埋まってる。かわいそうなもんだ」

ふと間中君の脳裏に、初めてのカヌー教室で沈した少年時代の記憶が蘇った――体を翻弄する水流、水の冷たさ――安全管理された水域で、ライフジャケットを着用していても、恐怖でパニック状態に陥った。洪水に巻き込まれる恐怖と絶望はどれほどのものか。

間中君は土手を駆け下り、テントから予備の食料とペットボトルの水を取ると、また土手へ戻った。祠の前に携行食品と水を供え、目を閉じて手を合わせる。

(怖かったろう、冷たかったろう、苦しかったろう……)

そう思うと、涙が溢れた。

「もう大丈夫だ……あんたの気持は届いたよ」

背後で老人の声がした直後、気配が消えた。うるさいほどだったチョロの存在感もない。怪訝に思って目を開き、ギョッとした。

老親も犬も消えていた。なにより周囲はまだ漆黒の闇。

さっきの朝靄と薄明かりはなんだったのか。腕時計を確認すると午前1時過ぎ。目覚めてからほとんど時間が過ぎていない。釈然としないまま、間中君はテントに戻り、もうひと眠りした。もうなにも起こらないはずだ――不思議と、そんな安心感があった。

その出来事から3年後、間中君は知り合いの伝手で子犬をもらいうけた。いまでも元気にカヌー犬として活躍している。

人懐っこい柴犬で、名前は「チョロ」にした。

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