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怪談市場 第二十一話

『呑鬼』

年下の友人マーと、海へ釣りに行った帰り道の話である。

我々の住む街は内陸にあり、海までは1時間以上車を走らせなければならない。夕方に出発して夜釣りでアナゴを狙い、中途半端な釣果のまま日付が変わる頃に竿をたたんで帰路に就いた。

片側2車線の国道を走行中、前方を走行する車両の異変に気付いた。テールランプが、やけに揺れる。かなりの蛇行運転だ。

「泥酔カー、発見。注意せよ」

「ありゃ、そーとー飲んでんね」

ハンドルを握るマーが減速する。万が一の事故に巻き込まれないよう十分な車間距離を保ちながらも、これから何が起こるのか、起こらないのか、持って生まれた野次馬根性で追跡と観察を続ける。国道とはいえ、深夜の田舎道だけに、問題の“泥酔号”と我らが“マー号”以外、周囲に走行車両はない。

それからしばらくの間、私とマーは安全圏で見守りながらも、泥酔号の危険運転に何度も肝を冷やし、私は悲鳴をあげてマーは警告のクラクションを鳴らした。もうダメだ――幾度となく、そう思った。しかし、不思議と事故には至らない。

左によろけてガードレールに激突しそうになっても寸前でハンドルを切る。右にそれて中央分離帯に乗り上げそうになっても紙一重で軌道修正する。緩やかに左へ傾いて今度こそダメかと思えば、道のほうで緩やかな左カーブを描いて事なきを得る。

「守護霊に護られてるとしか思えない強運だな」

感心していると、前方の信号が赤に変わった。左車線をふらついていた泥酔号は停止線の手前で停車する。マーは右に車線変更し、問題の車に並んで止まる。助手席の私が、泥酔号の運転席を覗き込んだ。

「ダメだこりゃ」

思わず呟いた。ドライバーはスーツ姿の太った中年男。ガックリと首を落とし、完全に寝込んでいる。目が開いていたとしても、見えるのは自分のせり出した腹部だけだろう。シートベルトがなければハンドルに突っ伏してしまうほどの熟睡である。それでも赤信号で停車するまでは多少意識があったのだろう。両手だけはしっかりハンドルを握っている。

その手に、違和感を覚えた。

ドライバーはスーツ姿の太った男。なのにハンドルを握る手はガリガリに痩せた裸の腕。別人の手かと見回しても助手席も後部座席も人の姿はない。と、運転席の男が眠り込んだまま無意識に首筋を掻く。分厚い手のひら、ソーセージのように丸々した指、手首にはスーツの袖口。本人の腕に違いない。なのにハンドルには相変わらず、裸の痩せた両手がのっている。

「あれ……誰の手だ?」

うろたえていると、運転席のマーに注意された。

「ソレ、あんまり見ないほうがいいっすよ」

言い忘れたが、マーはお人好しでお調子者の天然ボケだけれども、じつは現実に存在しないモノを――幽霊妖怪魑魅魍魎の類を“視る”能力の持ち主なのだ。心霊現象、超常現象の体験には事欠かない。

信号が青に変わり、ドライバーが熟睡したまま泥酔号は発進した。十分距離をとって車を発進させながら、マーは説明を始めた。

「あれはさ、別に守られてるわけでもないし、守護霊なんていいモノじゃないっす。いままでにも何度か視たことあってね。オレは“呑鬼”って呼んでるけど」

「ドンキ?」

「うん。奴らは意志の弱い酒飲みに取り憑くと、その人間の肉体を借りて酒を飲み続けるらしい。アルコールで体がボロボロになっても、死ぬまでね」

「なるほど。裏を返せば呑鬼にとって、取り憑いた人間は命と引き換えに酒を飲ませてくれる大事な存在。交通事故なんかで呆気なく死んでもらっては困るから、必死に運転を手助けしてるわけか」

そんな会話をする間にも、泥酔号は相変わらず死なない程度に蛇行運転を繰り返していたが、不意にウインカーを出すと左折して、国道沿いに店を構える飲食店の駐車場へ乗り入れる。派手にネオンを灯す、深夜営業のスナックだ。

「まだ呑むのかよ」

私は呆れるだけだったが、マーは通り過ぎざま、泥酔号の吸いこまれたスナックのネオンを憐れむように横目で見た。

「呑鬼に取り憑かれた人間はさ、1日中酒が欲しくてたまらなくなる。呑まずにはいられなくなるのね。そのうち仕事も家族も犠牲にして、酒を飲むことだけが、人生の、唯一の目的となっちゃうんだ」

「そういう人って、確かにいるな。怖いねえ」

「うん。オレたちも気をつけなくっちゃね」

マーの言葉に、私は深くうなずいた。意志の弱い酒のみということでは、2人とも身に覚えがありすぎる。

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