老いるということ。(映画・アイリッシュマンを観て)

テレビを観なくなって久しい。家にテレビはあるし、出張先のビジネスホテルにも当たり前のようにテレビが備え付けてある。しかしそのテレビのスイッチを入れるときは殆どない。と言うか、テレビ放送というものを観ることが殆どない。僕がかろうじてテレビを観るのは天気予報くらいだろう。本当はなくても困らないものだけれども、奥さんがテレビ好きなので捨てきれず置いてある。ただ、そんな僕でもテレビのスイッチを入れる時がある。昨今流行りのNETFELIXなどの番組を観るときだ。STRENGER THINGSはお気に入りだし、紀行ものや、ドキュメンタリー、音楽映画や過去の名作映画を観るのは大好きだ。

旅先の場合はMacBookProで観ることが多い。ホテルのインターネット環境によっては時にいらつくときもあるけれど、そんな時は潔く諦めて本を読めばいい。今観ないと駄目ということはないから。

今夜は仙台のホテルでNETFELIXのアイリッシュマンを観た。

マーティン・スコセッシ監督、ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ジョー・ペシという僕の好きな俳優が演じるマフィアものだ。言わずもがなこの手の映画によくあるドンパチや権力争いの構造は書くまでもない。皆さんの想像通り。

僕が強く心惹かれたのはデ・ニーロ演じる男が老いていく様だった。今年の春に五十の声を聞いた僕としては「老いる」ということが急に身近に迫って来たような感覚に追いかけられている。僕の仕事はコンサート・ツアー・クルー。年がら年中日本の、いや世界のどこかに旅をしている。若い頃はやんちゃもして、毎晩のように飲み歩き、バカ騒ぎをしてまた次の街に行く。そんな事を30年以上も続けている。しかし、今となっては仕事が終わればまっすぐホテルに帰り、気が向けばホテル近所のラーメン屋くらいは行くかもしれないが、たいがいは近くのコンビニでビールを二本くらい買って、大人しくホテルの部屋で音楽を聴きながら本を読んだり、温かい湯船に浸かったりして、静かに過ごすようになってしまった。特にそれを嘆いているわけではない。特定の街、例えば博多などに訪れると、必ず顔を出すバーくらいはある。ただ、ほとんどの街で外に繰り出すことが億劫になってしまったことは事実。なぜだろうと考えると答えは簡単。どこの街に行っても似たような景色になってしまってつまらないのである。少し前、僕が30代の頃ならまだ、各地に独特の雰囲気があり、移動日などは現地についたらまずは散歩をしていたものだ。鳥取などは今でも独特の雰囲気があってとても好きな街だったりもする。

散々悪事を働いてきたデ・ニーロ演じる男がどんどん老いていき、昔の仲間もこの世をさり、娘にも嫌われ、たった一人で過去の権力にすがって、ヨレヨレになって生きていて、病院の一室で牧師とともに過去の罪を懺悔する。自業自得といえども哀れであり、切ないものを感じた。

僕があと20年経ったら70歳だ。その頃はこの世の中はどうなっているだろう?

僕はまだ現役で若者に紛れてあくせく働いているだろうか?そうでありたいと思うのと、いやもう70だから引退して静かな老後を送っていたいと思う気持ちが半々だ。足腰も頑丈で健康であれば生涯現役で有りたいと誰もが思う。ところがなかなかそうも行かない。耳は遠くなり、視力も落ち、腕力も脚力も衰える。

そんな自分を働かせてくれるところがあるだろうか?そんな自分が静かな老後など送れるのだろうか?その時、娘は?妻は?僕は一人ぼっちなのだろうか?それとも誰かそばに居てくれているのだろうか?そんな事をバクゼンと考えていると、とてつもなく不安になる。60歳くらいなら現役でバリバリ働いている先輩方はたくさんいるし、あと十年なら僕だって現役だろう。そうありたい。

自分の死に際はどんなものだろう?

誰にも看取られず、孤独死なのだろうか。僕は妻と一つ約束をしている。妻より先に死なないという約束だ。そんなことは誰にもコントロール出来はしないけれど、なんというか、彼女を安心させるための方便のようなものだ。もちろんそんな確証はどこにもないというのは妻もわかりきっている。こういうことは口に出して言う事が大事だ。もう一つ一番心配なのは娘のことだ。娘は人百倍人見知りで、人間関係を築く事が苦手なようで、その事が心配でたまらない。僕が老いる頃、彼女は伴侶を得て幸せに暮らせているだろうか?たとえ一人だったとしても、ちゃんと社会生活を営めているだろうか?引きこもりの孤独に我が娘が耐えていることを想像すると胸が張り裂けそうになる。自分の親がそうであるように自分の子供のことはいくつになっても、僕が死んでからも心配でたまらないものである。

そういえばいつだったか、僕が住む街にある行きつけのバーで隣り合った同世代の男と他愛もない話で盛り上がった時、こんな事を訊かれた。

「あなたの人生の中でもっとも美しいと思う女性を三人思い浮かべてください。その三人を年齢順に並べてください」この質問の意図するところは全く忘れてしまったが、僕の中ではすぐに答えが出た。話は簡単である。答えは「母親、妻、娘」である。それ以外に誰がいようか。

話を戻そう。

「老いる」である。今の時代、未来に不安しか無いという人もかなり多いことと思う。でたらめな政治のおかげで世の中はギスギスし、子が親を殺し親が子を殺し、大した理由もなく人を殺す男がわんさかいる。街を歩く人々は皆スマホに没頭しながらろくに周りも見ず、どんどんぶつかってきては舌打ちをして通り過ぎる。こんな世の中ならとっととおさらばしてもいいのだけれども、今死ぬわけには行かないっていう困った現実もあるわけで。こんな時代で老いていくのは不幸でしか無いと言うのが今の気分だ。

とある夜、僕は妻と二人で銀座に出かけていた。大した用事もないのだけれど、たまの休みにちょっとどこかぶらついてみようという感じだったと思う。何を買うわけでもなく、ウインドウ・ショッピングを楽しんで、疲れたらお茶をして、晩御飯どうしようかなどといいながら四丁目あたりを歩いていたら、妻が「ねえ、あれみて、すごい大きなお月さま。星も見えるよ」といい僕の袖を引いた。空を見上げると大きなお月さまがネオンの空に浮かんでいた。その回りにはいくつかの明るい星も視ることができた。僕は率直に驚いた。都会のど真ん中でこんなにきれいな夜空が見えるなんて思ってもいなかったのだから。僕はふと「もっと街の明かりが少なければ、お月さまも星も視えるんだろうね・・・」とつぶやくと、妻ははっと思いついたように、「ねぇ、皇居に行かない?あそこならもっと視えると思うんだけど」銀座から皇居は目と鼻の先。僕らは慌ててタクシーを捕まえて皇居の二重橋に向かった。流石に中にはいることはできないけれど、皇居の歩道を歩くことはできたし、二重橋近くまでは普通に入ることができた。玉砂利を踏みしめながら、丸の内のオフィスビル群の真上にはきれいな夜空が広がっていた。冬だったから空気も澄んできらめく星々のまばたきもはっきりみえた。僕らはしばし無言で空を見上げていたら、門番をしていると思われる警察官が歩いてきた。時節柄、注意されると思ったのだが、その警察官は僕らのそばに来ると一緒に夜空を見上げ、「ここから見上げる夜空は東京のこの場所でしか視られない夜空ですよ。お足元にお気をつけて、ごゆっくり」と品のいい言葉を残して歩いていった。こんな時間を過ごせる環境があるのに、手のひらの小さなガラス板にばかり気を取られているのはもったいないと心底思った。そんな事を考えながら夜空を見上げていると妻が「〇〇ちゃんも連れてきたいわね」と言いだした。僕と前妻の間にできた娘の名前である。妻は娘とどう接していいかわからないながらも親近感を持っていてくれていて、それは今年22歳になった娘も同じであるらしい。お互い人見知りで一人っ子の彼女たちは一緒に過ごす時間が増えれば仲良くなっていけそうな予感がしている。僕はこの二人をなんとしても守らねばならない。母親も含めたこの三人の女性は僕の人生の支えそのものだから。しかしその支えを失くしてしまうことを考えると僕は正気でいられなくなりそうで怖い。娘はもちろん僕より長生きしてくれないと困るのだが、母親と妻はわからない。僕は親よりも妻よりも先に死ねない。ずっと迷惑をかけっぱなしの母にもずっと結婚を待たせてしまった妻にも滅ぼさなければいけない罪は天文学的数になる。困ってしまうのである。そう簡単に死ねないのです。

だんだん何を書いているのかわからなくなってまいりました。初めてこのnoteとやらに書く文章がこのような駄文てのも僕らしくていいかな。

今まで好き勝手やってきて、夢もいっぱい叶えて、楽しい時間もキツい時もいっぱい過ごして来たので、基本的に人生に悔いはないし、いつ死んでもいいんだけれど、心の底から愛している娘と母と妻にもっといい思いをさせて上げたいので、まだまだ死ねません。僕の口癖「いつ死んでもいいけれど今死ぬわけには行かない」ってやつですね。

老後の不安は消えませんが・・・。

それではまたいつか気が向いたら書きます。



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