中華南北朝の系譜

理解したところから
王朝の名称はコロコロ変わるが、皇帝の氏族が変わる=王朝の名称が変わるが殆どで、禅譲による交代が多いため大規模な戦闘によって領土が塗り替えられることは少ない。
off-mapな人間関係により系譜が移り変わる分、地図的な分かりやすさが無く理解しにくいか。今後関係図を作りやすくなるはずなので、それによる理解の広まりが期待される。
氏族はいずれも軍閥で、官僚制が崩壊している分の軍事力維持と徴税を
軍閥の封土の軍政で何とかしていた感じか。封建制といえば封建制。
五胡十六国に比べれば南北朝はまだ分かりやすいかもしれん


◆五胡十六国https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%83%A1%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3
八王の乱(291年 - 306年)
漢、後の前趙成立(304年) 匈奴系、曹操の使い走り劉豹の子劉淵が興す
 これより五胡十六国時代(~439 北魏による華北統一)
淝水の戦い(383)
 華北の覇者 前秦苻堅、戦闘に負けてのち国が亡ぶ

◆ここから南北朝
北魏(386~534):元氏
↓これが分裂、皇帝に元氏を抱きつつ後にどちらも禅譲
 東魏、のち北斉(534~550,550~577):高氏
  →六鎮の乱命かつ継承ゴタゴタ、内政うんこで北周に滅ぼされる
 西魏、のち北周(535~556,556~581):宇文氏
  →六鎮の乱に関与し、その後武川鎮の筆頭になる
   華北を統一するも外戚の楊堅に乗っ取られる
隋(581~618):楊氏
 →北魏時代の武川鎮に連なる、北周の外戚
  幼帝の外戚として実権を握り禅譲を受ける
唐:李氏
→北魏から続く軍閥で、隋の外戚
 612年~614年:高句麗遠征 内乱頻発
 617年6月:李淵挙兵 ここまでは一応反乱鎮圧する側
 617年11月:首都長安陥落と皇帝奉戴(2帝並立)
 618年5月:煬帝の死(前月)が伝わり禅譲を受ける
  のち10年程度で中華統一

◆南朝
東晋:司馬氏
 →禅譲
劉宋:劉氏
 →禅譲
南斉:蕭氏
 →禅譲
南梁:蕭氏
 →禅譲


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