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対人要素


ゴールデンウィークを利用して川を見に行った。観光のついでにその土地の川を眺めたことはあるが、川そのものを主目的に出掛けるのは初めてで新鮮な心持ちだった。


長期休暇のうちの1日を使ってわざわざ川なんか見に来た理由は2点(パパと僕とで2本)。一点は、寂しさの均衡を保つため。寂しさには客観的なものと主観的ものがあり、例えばバーベキューでちょっと席を外した間に肉が売り切れるのは前者だし、そのことに対して誰もキープしてくれなかったと悲嘆するのが後者といえる。ちなみにウッチャンナンチャンというコンビ名においてウッチャンは前者、ナンチャンは後者だ。客観と主観、ふたつの寂しさの釣り合いが取れていれば割りと気丈に振る舞える。しかし今は、主観的寂しさに比べて客観的な寂しさが全然足りていない。心中                                      だったとして、実際問題どこにいても人がいて、やるべき仕事があり、インターネットから絶えず声がする。まるで己の感情に価値があるかのように振る舞う人々は黙ることを知らない。感情が感情を呼ぶことに気づかない。逃避がてら無人の川べりでも訪ねたくなるわけだ。けだし寂しさを楽しさで埋め合わせる行為には無理がある。寂しいから楽しくないというのは正しくない。楽しくないから寂しいのだ。トイザらス、しゃぶ葉、西松屋に代表されるように、男が一人で行って楽しめる場所はいくらでもある。それらでいっときの寂しさを解消することは可能だろう。でも考えてみろ、決して埋まらない寂しさを抱えた男が、楽しい場所に行き、案の定楽しくなって帰ってきたら、物語としてあまりに救いがない。じゃあ何だったんだこの感情は。この感情に振り回された俺は。追い出した寂しさが後でひょっこり戻ってきたとき、どんな顔をして迎えてやればいい。確立された一個の感情として、寂しさを蔑ろにはできない。

もう一点の理由として、川に対する関心が日毎に増しているというのがある。山中を流れる美しい渓流で釣りや水遊びに興じる、なんてのもいいがそれより、住宅街やオフィス街を横切る、コンクリートで固められて風情のかけらもない、生活排水どぼんどぼんの、潰れたリプトンの紙パックが水面に漂うような、汚っっっったない川にこそ、なんだか心惹かれるものがあると分かったのだ。道を歩いていてそういった川に邂逅するとつい立ち止まり、スマホを触ることもなく、しばし眺めてしまう。名状しがたい魔力があった。汚ければ汚いほどいいなんて倒錯した境地にはまだ至っていないが、とにかく、ただひたすら川を眺めて過ごすことへの憧れがあった。今後川に受け入れてもらう準備として、今回は好機と言える。行ってみよう行ってみようの一点張りで行ってみようと企めばなんだか胸が踊るものあり、ブンダカブンダカと高揚するつむじが、あっ、ああ、毛布の、なるべく清潔そうな箇所、足の裏とか触れてなさそうな箇所に唇を当てて、深く息を吸い、俺はもう疲れたゆえ、いいね数とかRT数とか他の人と比べてどうだとか世俗的な卑しいしがらみからは解放されて(ここで言う解放とはいわゆる上がりを迎えることであり、断じて敗走ではない)ひがな一日、茫然と川を見ていたい。早い話が隠居したい。これは常日頃から思っていることだ。夢顎んくという人間がいたことをみんなに記憶してもらいたいが、俺はもう、お前らのことなんてさっさと忘れてしまいたいんだ。わがままだろうか。変な匂いがしてきただろうか。そう思わせるだけの何かを、お前らは俺にしてきた。あるいは、何もしてこなかった。(チンポ)



大分駅までやってきた。他人はどうだか知らないが俺の人生にはめずらしい晴天。薄着の人等もちらほら視界に映り、ひるがえって俺は未だに冬の装い、紺色のジャンパーを律儀に着ていた。暑くないわけがない。ただ、装備の乏しさはそのまま心の不安に直結する。自分の姿は鏡で見ないと分からないので、はたして俺がちゃんと笑顔を作れているか自信が持てない。そんなとき一枚でも多く上着を身に着けていれば、服を着る程度の常識は持ち合わせている人だと思ってもらえる。シャツ1枚だと乳首も透けそうで怖いもんね、汗程度で透けるようなヤワな乳首は持ち合わせていないが、右が無事でも左がおろそかになる可能性は充分ある、2つも抱えてると色々難儀するのだ、贅沢な悩みだが。駅前の広場は陽の光に温められ、ほかほかと熱を帯び、もし俺が湯気ならここを選んで立つのにさ。なんだかプールサイドを彷彿とさせる。緑のフェンスいっぱいに厚手のタオルが並んで掛かってる様子が幻視できる。フェンスがないからかろうじて駅だと認識できている。小学校低学年の頃スイミング教室に通っていたのに未だにかなづちで辛い。これから川に行く男としてはおおよそ相応しくないことを考えている。そして月謝のことも。幼いころの習い事の月謝に思いを馳せるのは大変健康によくないので推奨しない。WHOもやめろと言っている。それでもまだやるか、仕方がないな。俺は水に浸かると鼻の栓がゆるむ体質だ。小学校の頃に友人と市民プールで遊んでいた時のこと、流れるプールに潜り水面から顔だけ出したところ、友人は俺の顔を指さして笑った。「ハナが出ちょんよ!」指でつまめるくらい濃厚なやつがズルズル飛び出ていた。あまりに恥ずかしく暫時母胎に引きこもっていたが最近ようやく産道を抜けて、笑って済ませてもらえたのは幸せだったとしみじみ回顧する。俺には真似できない。鼻水はところによりウンコより忌避感がある。昔ネットで小説を書いていた時「白い平皿に載せた鼻クソをフォークで食べる」というシーンを描写したら読者にめちゃくちゃ嫌われた。これがウンコならギャグとして許してもらえたことを考えると大変悔しい感情がある。だが学びはあった。鼻から分泌されるものの汚さは肛門のそれを超えるという学びが。プールならなおさらだ。うむ。プールならウンコのほうが嫌か。極端なこと言ってしまった。ともかく、嫌な顔ひとつせずただ笑いとばしてくれた彼には感謝する。そんな友人とも別の中学に進学し以来会っていない。名前も生まれも覚えているので本気で再会したければ探し出せるだろう。それだけテレビの力はすさまじいということだ。けれどきっと生涯会うことはない。もし本気で探しあてたとして、大切な思い出すら壊れてしまうことを、誰もが本心で理解しているからだ。そのような関係が人生いくつも積み重なっていて、だから今生にもはや期待が持てない。この話終わったからもう戻ってきていいよ。




大分県はそれなりに川が多く、それは山があるからに他ならない。山に雨が注がれれば斜面を流れ落ちて必然川が形成される。今回の目的地は大分県豊後大野市犬飼。俺が住む大分市より南に位置する小さな町だ。デトロイト・メタル・シティの作者である若杉公徳氏の故郷としても知られている。知られているのか?この町を南北に貫いて一級河川の大野川が、それに合流する支流として柴北川と茜川が存在する。今日、3つとも見れたらよかった。Google Map上だと徒歩で10分程度の距離だし、憂慮すべきことはなにもない。それで実際、どうなったと思う?



大野川



柴北川




茜川


見れちゃったんだぜ、3つとも。



大分から犬飼へは豊肥本線という路線を南下する。その名の通り、豊後国と肥後国、つまりは大分から熊本方面へ延びる路線である。14時発の電車は乗客がそれなりに多く、向かい合わせの四人がけの席になんとか座れたが、あぶれた10人ほどが通路やドア前へみっともなく散らばった。俺の向かいには70から80くらいのおばあちゃんが腰掛けている。時代が時代ならみかんをお裾分けしてくれそうな風貌だ。いつまでたってもこちらへみかんを差し出すそぶりを一切見せないので、俺はなにかを間違ってしまったらしい。この人を見ていると、今は田舎の特養で暮らしている父方の祖母を思い出す。赤の他人のおばあちゃんから自身のおばあちゃんを連想するのは失礼に当たるか?どの立場から失礼だと判断するのか。血の繋がるおばあちゃんに思慕を抱けば、ひいてはすべてのおばあちゃんに対して同じ思いを抱くことにならないか、分からないけれど、窓外の風景を眺める合間に横目でチラッとおばあちゃんを盗み見て、すぐに目を逸らすという取り組みをいくどか繰り返した。切り取られた数枚のフィルムのなか、おばあちゃんは肘掛けに肘をついてうつらうつらしていた。




大分を発車してから30分弱、電車は犬飼駅へと到着した。実はさっきから尿意、電車の振動が尿道と膀胱の境界フォッサ・マグナをじ〜んと痺れさすので、すぐさまトイレへ駆け込んだ。小便器の前に立ち、考える。JR九州はトイレにハンドソープの類を置かないポリシーで通っている。水で洗える限界を越えて手を汚すわけにはいかない。小便ならまだいい。亀頭に触れない限り、陰茎本体の部分はキレイなはずだ。感謝グレイトフルするんだな。用を済ませてチャックを引き上げるその指先は何かしらの液体で湿っていた。ここからアンモニアも交えてお送りします。


ホームから歩道橋を渡った先の駅舎の、さらに車道をはさんだ向かいには、偉いもんで、もう大野川が流れている。古い建屋に挟まれた草深い空き地から、広大な川の様子がかすかにうかがえた。




ここで降りた乗客たちは三々五々に散らばり、川に気を取られていた俺一人がいつの間に取り残されていた。人生の縮図だ。いたるところに、そして、往々にして。中学1年の頃に学年会長をつとめていたが、学年集会が体育館で開かれることをなぜか会長である俺だけが知らず、遅刻してしまったことがある。大事なことをいつもいつも、いくら注意を払っても取りこぼしてしまうんだ。そんな俺が学年会長になれたのも結局、選挙で人一倍の大声を出したからにすぎない。オモコロ杯獲れたのと同じ理由だ。




とりあえず支流のある方をめざして、川沿いの道を南へとぼとぼ歩いていく。今の俺にできることはそれくらいしかない。道の左側に立ち並ぶ建家はどれも人の暮らす気配を感じず、戸や窓を開け放ったままボロボロに朽ちた廃屋も散見された。いくら歩いてもコンビニなどの類の店はなく、目の届く範囲ひたすらに閑散としている。ホーホケキョというわざとらしいウグイスの声ばかりが繰り返す。人気のない道をずんずんと闊歩し、人が好きなんだと気づいた。人類愛って人を目の前にして起こることはないな。寂しさそのものにしみじみとした喜びを感じることはないが、今この道を歩いていて人を恋しく思う気持ちはいわば後々への投資と言え、寂寥感は時間を隔てるごとに醸成され、その味わいを増していく。この先、人間関係に煩わしさを覚える瞬間がいくつもあるだろう。というかもう、そうだけど。そんなとき、思い出をこっそり、少しずつ齧って楽しむ。そのための今だ。湿った鼻先でちょんとつつける範囲の全てが満たされる人生を、それだけを夢想して。誰に言い含められたわけでもないが。








駅舎から100メートル(多分)ほどまっすぐ歩いた先は、コンクリートで造られた崖の頂上に繋がっていた。崖際に立ち並ぶ白い柵は途中で一旦途切れ、その間にチェーンで繋がれた2本のポールが立っているのが見える。チェーンをくぐった向こうは階段になっていて、川岸に降りられる。「入っちゃ駄目!」と書かれた看板も見つからないので降りていいはず。いいんだよね?南無三。ポールの脇を通って、階段に足先を下ろす。
 




ところがやたら急峻な階段は一段一段が大きすぎるし当然手すりなんてものはない。石を段状に積み上げれば階段になるだろうという安直な考えのもとにマイクラ感覚で作ったとしか思えない、人が昇降することを全く考慮してないデザイン。怖すぎる。手すりのない急な階段を降りるときこそ生の実感を得がちである。事実一生分は得た。朝の通勤時、俺以外の人々はホームの階段を手すりを掴むこともなくヒョイヒョイ降りていく。怖くないんかね。うっかり踏み外して転げ落ちる想像を全く頭に置いてないのか。または、そんなことをいちいち考えていては、他にもっと大事なことを覚えてられないとでもいうのか。でも「階段を無事に降りる」ことより優先されるべき事柄ってこの世にあるのだろうか。本当に?釈然としない気持ちを抱えて、俺は、他の客にせっつかれたり追い越されたりしつつ足元を確かめながら降りている。




降りた先は砂地で非常に歩きにくい。よせばいいのにスクスク育ちきった宿命として今の体重がある。乾いた柔らかな砂が全靴ぜんくつをようしゃなく引きずり込む。一歩踏み出すごとにズシュズシュと嫌な感触が足裏に伝わり、考えてみれば砂の上を歩くなんて経験も久しぶりで、俺が普段歩く道はことごとく舗装されていたという証拠であり、そりゃどこにいても人の気配を感じるのも然り。やっと自由になれたのか。


俺ごときがするどいまなざしで見つめたところでちっともビクともしない。泰然とただ流れている。


 対岸ではなにやら工事を行っているらしく、無骨なショベルカーがゆったり動いているのが見えた。変な時期に来ちゃったなと一瞬後悔したが、まあそれも悪くはない。




10キロは流石になかよしできない。



前に進む理由をくれ