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一瞬でも青春

 30歳を超えた今になって、なぜ学生時代にやっておかなかったのかと後悔することがいくつかある。マリトッツォが流行るとか、東京オリンピックが開催されるとか。


 決して青春を無為に過ごしたわけではない。学生の時分、見聞を広めるべく様々なことにチャレンジしたものだ。たったひとりで図書館に居座り読書に没頭し、たったひとりでラウンドワンに行き汗を流し、たったひとり留年した。どれも普通の学生生活を送ってきた連中にはなし得ないことだろう。本当は誰かに止めてほしかったのかもしれない。


 そんな俺の心残り。いちどでいいから、学食でランチを食べてみたかった。俺の母校にも学食はあったが結局利用することはなかった。というのも、おかあさんが毎日弁当を持たせてくれていたから、毎日正午になればそいつを片手に三階の教室を飛び出し、階段を一段とばしで駆け降り、一階のランチルームの入口をくぐり、掃除用具入れの前を通り過ぎ、誰もいないことを確かめてから個室のドアを開け、便座の蓋を閉じ、その上に弁当箱を置いて昼食を済ませていたからだ。これは便座の蓋がテーブルなどの普段使いに最適な形状をしているのが悪いのであって、例えば中央に大きな穴が空いていたりさぼったリングが丸見えだったらこんな使い方はしないわけで、責任の一端はTOTOにある。それでもゆるく湾曲し多少不安定なところに遠い苦悩と煩悶が偲ばれる。というわけで学校に足掛け6年いて、一度も利用することなく、たまに体育の授業後にキッチンの冷凍庫の氷をくすねるべく訪れるたび、ひっそり閑としたテーブルや椅子を眺めては、自分がそこに座りカツカレーやうどんをすする様子を想像し、そういった綺麗なものばかり見てきたので、ホレ、目医者に褒められる目。


 一般に開放されている学食はいくらでもあるのだからそこで食べればいいじゃないかという愚妹はいるだろう。違うんのである。俺が今そういったところでめしを食べたとして、その行動に「おっさんが」という枕詞がひっついてくることを果たしてお忘れではなかろうか。「おっさんが学食でランチを食べる」という事象は、現役の学生のそれとは一線を画す。断層が生じる。そこには「腹を満たす」という目的以外の懐古という意味が生じてしまうから。歳をとり選択肢が狭まれば、枠外の行動にはすべて意味が付随する。意味がないのが青春だ。確かそう書いてあった。我々はもう、無意味なことを自然にできなくなった海悲しい(シー・サッドネス)な存在だ。無意味で無計画で無形文化財な輝かしい日常が我々の特権ではないことに気づいてるゆえ、いちじるしくも見苦しい照れ笑いが開始されるのだ。ニヤニヤしながら、食器の底をスプーンでつついて、カンカン音をさせるのだろう。いやしくも。


 それに続いてもう一つ経験したかったこと。転校。できることなら転校というやつをしてみたかったのだ。思えばこれまでは転校されるばかりだった。してやられ放題で大変悔しく、君らが言うところのカエラは転校され放題というわけだ。される方じゃなく、する方の気持ちを理解したい。されどこれは学食よりもはるかに難易度が高い。一般に向けて転校を開放している学校は2022年現在存在しないのだ。


 小学、中学、高校それぞれで一人ずつ転校生を迎えた記憶がある。そのすべてに共通するのは、彼らがクラスの雰囲気に馴染むまでのスピード、その速さ、もはや他の追随を許さない。転校初日から1週間位までは転校生にどこか「お転校さん(おてんこさん)」の匂いがつきまとい、クラスメイトからは異質なものとして扱われる。だが1週間を過ぎ、2週間、3週間、1ヶ月、10年も経つ頃にはすっかり馴染み、馴染み下げ果て、バケツ3杯分の量まで達している。まるで初めからいたかのようなポジションを獲得し、髪を下ろせば家族すら気付けない。あれはやはり、転校に際し何かマニュアルとかに目を通しているのだろうか。そうでなければ説明がつかないほど、彼らはクラスによく溶ける。冷たい牛乳にもサッと溶けるブレンディかい。後で聞いてみたら、冷たい牛乳にもサッと溶けるブレンディとのことだった。当然なにごとにも例外はあるだろう。どこまでいっても馴染めずにピンクのドンキーばかり使わされる悲しい体験をする子だっているかもしれない、が、俺はその例外にすらなれなかった。幸せなことなのかもしれないが、見えない幸せはそれと喜べないこともある。


追伸。


 で、もうすぐ、そんなおかあさんの誕生日である。おかあさん以外のみんなの誕生日でもあるが。還暦になるのだ。かつては還暦を迎えるともう立派な老人だというイメージがあったが、今は60歳といえば一般的には還暦なのだから時代は変わるものだ。思わんか。


 帝王切開で産ませてしまった負い目があってか、なかてか、やらいでか、なにか素敵なものをプレゼントしようと企み、こんなこと考えるのはさんま御殿のスタッフくらいだろうけども、絞られ慣れていない知恵を珍しく絞り、絞り上げ、知恵の先端に空気が集まりプクーっと膨れる頃、スマートスピーカーを買ってセッティングしてあげることを思いつく。途端に空想が暴発する。誕生日当日、あれ?プレゼントは?と訝しむ母の前で、「もう用意してあるよ。アレクサ、ハッピーバースデーかけて」スピーカーから流れ出すハッピーバースデー。朱に染まる俺の頬。こりゃあきっと大喜びして一つの塊に、喜び・キューブと化すぞとほくそ笑んでいたが、その日が近づくにつれ不安になった。果たして、還暦のプレゼントとしてスマートスピーカーは適当なのか?赤いちゃんちゃんこはもはや論外としても、食器とか、万年筆だとか、アクセ(サリー)だとか、そういった格式高いものでなければならないのでは。悩んだが、俺の同級生には還暦を迎えた人がいないので相談もできないし、なにより同級生の連絡先を一つも知らない。


 不安になって、そして、不安になったので、不安を覚えた人の行動はいつも決まっているゆえ、せーので言ってもぴったり答えが合うため、当然ツイッターで検索。「還暦 プレゼント アレクサ」「還暦 プレゼント Google Nest」「還暦
プレゼント Echo」…。同じことをすでにやっている人がいると確かにオリジナリティは失われる、しかし引き換えに絶大な威力の安心を得られるのだ。

ドリャ。





おもしろ。

前に進む理由をくれ