当初描いたのと違う

我々は不自由である。
自分の意志で「こうなりたい」と決め、周到に計画することで目標に辿り着くという物語、それは幻想だ。現実世界は、個人がコントロールできるほど単純ではない。現実を「モノ」とみなし、自分の支配下に置こうとするのは傲慢である。そもそも「意志」というものが存在するかどうかも怪しい。

上記は、私が「日本哲学の最前線」を読んで感じ取った内容である。
アラサーである私は、最近まで長らく「自分はいつかこの人と結婚するのだろう」と思う相手がいた。しかしなんだかんだあって、その未来は永久に来ないことが確定した。目の前が真っ暗になり、数ヶ月間泣き続けた。そのうち、自分の幸せを「彼との結婚」に委ねていたのが問題だったのだと悟った私は、「これからは、自分で幸せの形を選び取っていくんだ」と再出発を決めた。具体的には、何かものを書いたり作ったりすることで社会貢献したい。そのために、少しずつ準備を始めた。

そんな頃気まぐれに、「日本哲学の最前線」を手に取った。
ああ、再出発を決めた私も、まだ幻想を見ていたのか。確かに「少しずつ準備を始めた」とはいえ、全然芽がでる感じはなく、書きかけてはやめ、描きかけてはやめを繰り返していた。決心が強ければ、意志が強ければいつか、と思っていたが、現実とは、そんな世界線ではないのだろう。

話は変わるが、二年ほど前からひどく気に入っている曲がある。
中田裕二「こまりもの」。

この曲を聴くと、安心するというか、懐かしいというか、なんかしっくりくる。没頭したいときにかけたり、眠れない時に繰り返しかけたりしている。

歌詞はというと、「彼はもう私に気持ちがないかもしれないが、私はたぶんまだ好きだし、彼が私を必要としている可能性に賭けたい。というかこれまで長い時間を彼に割いてきたわけだし、もう引き返すこともできない」という女の気持ちである。出てくる言葉は少ないが、歌詞から女の境遇と心の機微がありありと伝わってくる。本当によくできていると思う。
※実際の歌詞では、登場人物の性別について明示はされていない。ただ私は「主人公は女性、相手は男性」の物語をイメージしたため、ここでは「女」「彼」と書かせてもらう。

私は「結婚するだろうと思っていた彼」と数年連絡が取れていなかったのだが、その間、この歌詞そのものの気持ちで再会の時を待っていた。自分の境遇とリンクするところがあったから、この曲に惹かれたのかもしれない。

そして「日本哲学の最前線」を読んで、この曲に惹かれるもう一つの理由に気付いた。それは楽曲全体から感じられる、「自分にはどうしようもできない」という雰囲気である。

テンポはちょっと早歩きくらいで心地よいのだが、どことなく、自分の意志で歩いていると言うよりは歩かされている感じがする。シンセサイザーの音は開放的でキラキラしてるが、なんだかほろ苦い感じもする。
私の拙い文章力と音楽知識とではこれくらいしか説明できないのであるが、とにかく私はこの楽曲から、「自分にはどうしようもできない」という、雰囲気というか世界観を感じ取っている。

ニュアンスを説明するため、もう一つ書き足したい。
歌詞の女は無力さを自覚しながら、失望するでも自嘲するでもなく、真剣に「困ってる」。この楽曲の「どうしようもできない」は単なる悲観ではなく、その状況を自然なものとして受け入れ、真摯に向き合う感じも伴っている。そんな気がする。

私は不自由である。
これから先も、自分が思う通りの幸せなど、手に入れることはないだろう。でも悲観はしていない。現実とはそういうものだから。
そしてこうして無力さを受け入れるのは、美しいことなのだと思う。
だって中田裕二が楽曲にしたテーマなのだから。そうだよね?

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