見出し画像

あの日、公園で撮っていた空の上写真。

│はじめに


最後の記事を書いたのが2019年4月なので、かれこれ1年以上。

この1年で何が変わったって、コロナ以外に何がありましょう?(いや、無い。)という感じですが、わたしにとっては大事な存在を相次いで失う1年でした。

去年9月に、居酒屋で一緒に働いていた父。

そして今年4月に、もうすぐ17歳になるところだった犬が死にました。


これは以前公園で撮った写真ですが、今見ると「空の上」の写真のように見えます。二人とも元気かなぁ。

それなりに時間も経ちましたし、「死とは」みたいな重たい話をしたいわけではなく、こんなことがありました、今はこんなですといったご報告の機会にさせてもらえたらと思っています。


│死の2ヶ月前、急に声が出なくなった父。


父が大腸ガンになったのは2014年。大腸ガンを切除する手術を2回、転移した肺ガンの切除手術と合わせて3回の手術を受け、抗がん剤治療をしながら居酒屋の板場に立ち続けていましたが、去年の7月ちょうど今ごろ、ある日急に声が出なくなってしまいました。

「風邪でもひいた?」と言うと、笑って首をかしげていた父を覚えていますが、後からこれが大腸ガンを原発としない、全く新しいガン=食道ガンだとわかりました。声が出なくなり、食事を、しばらくすると水ですら飲み込むのがつらくなり、最終的にはこれが致命傷となったようです。

│1ヶ月前まで一緒に居酒屋で働いていた。


もともとは妹と一緒に居酒屋をやっていた父。妹が辞めたいと言っているのでわたしに戻って来いと言った時の誘い文句は、

「死ぬまで居酒屋の大将でいたらオレかっこよくない?頼むよ。」

でしたが、声が出なくなってからも、午前中にわたしの運転で市場へ行き仕入れをし、夕方まで仕込みをして店を開け、最後は閉店まで持たないこともありましたがそれでも板場に立ち続け、死ぬ1ヶ月前まで店を開けて一緒に働いていました。

「一緒に働く」と書けば簡単ですが、病気のケアをしながら父の自尊心と健康を損なわないように仕事をすること、させることは、父には絶対気取られないように店での父を看取ること。最後はわたしも泣いたり怒ったりしながらギリギリの毎日を過ごしていました。

そんな父が最後に店に立ったのは、8月8日木曜日。

翌8月9日金曜日は、この日店を開けられれば次の日からはお盆休みに入るところでしたが、体調が悪く店を開けることが出来ませんでした。

週明けからは、しばらく食事が出来ていなかったので、渋る父をお盆休み中だけならと納得させて、点滴療養のために入院させることに。

久しぶりの入院で病室まで連れていくと、顔見知りの看護師さんがやって来て、「えー?!まだお店に出てるの?すごいじゃなーい!」と声を掛けられた父。少し照れくさそうに、でもうれしそうに笑ってからドヤ顔をしたのを見て、わたしは父のこの顔を見るために今までがんばって来たんじゃないか。そんな風に思えて、その日までの苦労が報われた気がしました。

│最期の日を知っていた父。


点滴を打ちながら放射線治療も行いましたが経過はよくなく、最期の日が近づいて来ていると先生から告げられました。ホスピスへの転院の説明を受けたり、ケアマネージャーさんとの相談などを受け始めた頃には痛み止めの量もさらに増え、病室へ様子を見に行っても寝ていることが増えた父。

どうにかもう一度、車椅子でもいいからお店に連れて行ってあげられないか。一緒に店に行ったら、また少し元気になるのではないか。わたしがそんなことを考え始めていたある日。土曜日だったから9月7日ですね。ベッドに横たわったままの父が久しぶりに突然目をキリッとさせてから身体を少し起こして、わたしにかすれがすれの声を振り絞ってこう言いました。

「おいさくら。来週から店を開けるぞ。」

本当に驚きました。

車に乗れば15分で着く店にどうにか連れていけないものかと悩んでいたわたしに、店を開けようだなんて、一体何を言っているのかと。

「でも、月曜日はダメ。火曜日から開けよう。」

両手の人差し指でバツを作って、父ははっきりそう言いました。


そうだねそうしよう。

でもまずは一度、お店の様子を一緒に見に行こうよ。久しぶりだから、冷蔵庫の中身も全部チェックしないと。


とっさにそう答えた病室からの帰り道、なんで突然?しかも月曜日はダメで火曜日って?と思いながら車を運転していましたが、その時ふとひらめいたのです。

もしかして父は火曜日に亡くなるのでは?今は身体が動かないけど、火曜日になれば死んで身体も自由になり、魂?になってフワフワと病院から飛んで行って店を開けられると言っているのでは???と。

まさかね・・・と思いましたが、父は本当にその3日後の火曜日の夜、9月10日。安らかに空へと旅立っていきました。


生前パラグライダーや磯釣りが趣味だった父は、毎日空を見て雲を見て、スマートフォンで東京アメッシュやY!天気の雲の動きをチェックしては、店へ向かう車の中でいつも楽しそうに「俺天気予報」を発表していましたが、その夜は新小岩駅が冠水するほどの大雨と激しい雷。いつものように「さぁ、雷が来るぞ~」と言って笑いながら、自分の最期を景気づけようとした父が呼んで来たみたいな夏の夜の嵐は、父の呼吸が止まるとウソのようにどこかへ消えていきました。本当に父らしい最期でした。


│その後。


父が死んで、今はわたしが板場に立っていますが、父の居酒屋は今も営業中です。

父の死後、お客さんが「僕の足元にあったんだけど。」と、チュッパチャプスが刺さった見たこともないウィスキーグラスを持って来たり(誰も心当たりがないし、ウィスキーメニューはない)、お客さんが帰ったテーブルの上にコインがあって、追いかけて返そうとしたら「アラブ首長国連邦のコイン?僕のじゃないなぁ、行ったこともないよー」と言われたりと、全くもって1本の身の毛すらよだたない怪奇現象が続いたりしましたが、まぁ父はとってもいたずら好きでしたしそれはいいとして、このコロナ禍で客数が激減する中、レジ横にある父の写真にお線香をあげると、お客さんが数組来てくれるというのは、とてもとてもありがたいことです。

まぁそれがわたしではなくバイトの男の子でもなく、バイトの女の子がお線香をあげた場合だけに限られていることは少し、いえかなり結構納得がいきませんが、自分の命を燃やしながら立ち続けた店に今も父がいることは、新米女将のささやかな心の支えです。

これからも父がこの店でフワフワと飛び回りながら楽しく過ごせるように、この危機を乗り越えていけたらいいなぁと、日々がんばっています。

お店知ってる人は、これからもどうぞよろしくお願いします。

ときどき飲みに来てね。


犬の件は、また機会があれば。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?