遅れてここにきたそのわけ
気づけば1ヶ月どころか、2018年の20周年イヤーが終わってしまいます。お礼もご報告も中途半端なままですみませんでした。
遅れてしまったことに、そのわけなどもありません。交わしたはずのない約束に縛られたわけでもないのです。が、書き続ける気力がちょっと途切れてしまいました。終わった時に飲み歩いてないでその足で何か書きはじめていればよかったのでしょうが、あのときはもうガソリンを注入し続けても吐き出し続けても何してもダメだったんだろうなと思います。そしてあの日の勢いだけで書いておきたいこともあれば、すこし冷静になってから反芻したいこと、情報の整理でいっぱいいっぱいになってしまって、考えて、考え込むうちに、バグって少し寝込んでしまいました。失速しました。
ライブは、そりゃぁ楽しかったです。楽しくないわけがないじゃないですか。無事届いたのを遠目に見届けられたので、客席にいる間はすっかりお花のことを忘れました。意識的に忘れました。脳のHDDをライブの思い出用に空けておきたかった。
堀込兄弟時代のライブをみて、泣いたことはありません。思い入れがないとか、そういうことではなく、完璧な音作りであるがゆえに過度な期待を込められてしまう兄弟の危なっかしさ(試合を見守る親御さんやコーチの気持ちに勝手になる)とそれを支えるサポートミュージシャンのスーパープレイによって、ハイライトが多すぎて涙を流している暇などなかったのです。1ライブあたりの情報量が多すぎる(注:ほめてる)。
今回、ライブ以外で少し泣きました。
あのアーリーPVは、古くから知っているあんなに面白い画像であっても、予想外にパッケージされた、すてきな20年分の過去からの贈り物で、目が潤みました。牡牛座という無意味でおそらく一番誰の心にも感情移入しすぎないのに共作で、クールで熱い、軽く強烈なインパクトをもつ選曲も最高だった。
また、Web公開されているメラメロショートムービーも気づいたら涙が溢れていました。ときちゃんという女の子は小学生ぐらいの自分を思い出させる何かがあって。キリンジを耳にする10年前なのか15年前なのか。不思議と遠い昔の自分に繋いでくれた。老若男女関係なく、前を向く人への普遍的なテーマではないかと思いました。
次のステップに進むとき、少し痛みを伴ってでも、何か大切な過去をきちんと切り離さないといけないときって、どうしてもでてくると思うんです。そして、きちんと正面を向いて補助輪なしで進めるようになったとき、視野が拓けて周りが見えるようになった時、またはもっと先の未来に免許証を返納する時、自分が自分を許せるようになった時、手放した大切なものに気づいて「おかえり」って言えるのかもしれません。
人それぞれ、固有の20年ですが、自分のフィルターに変換して、きちんと映る風景や情景がこの20年の企画映像を通して感じ取ることができたのではないかとおもいます。そしてそれが各曲への深い理解とともに多面的な見方のできる、瑞々しいクリエイターさんたちによって作り出されたこと。こういう支持のされ方って1ファンとして見ていて、素直に素敵なことだなと思いました。
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とりあえずここまで(ここから先、まだ長くなるので、順番に加筆していきます)