偏見と 固定観念と 思い込みと

漫画を描かない人が、漫画を好きなはずがない。

文章を書かない人が、読書を好きなはずがない。

絵を描かない人が、絵を好きなハズがない。

モノを造る楽しさを知っている人なら誰でも思う。

"モノを作ったことがない人に、この感覚が「解るはずがない」"

「好き」という感覚は理屈じゃない。

出来るとか、出来ないなんて関係ない。

本当に好きだと思うなら、自分で何かを生み出している。

だって「好き」だから。

すべての作品は、この「好き」の集大成だから。

でも、「好き」という感覚は、皆が皆、同じように感じる感覚なんだろうか?

言葉として、単語として「好き」と表される「感覚」は、私が感じる感覚と他の人が感じる「好き」とは別のものなのではないだろうか?

言葉の定義は曖昧で「コレがその感覚」って確信もないのに、

普段何気なく使っている言葉は、自分以外の人と、本当に共有できているんでしょうか?

人は、言葉による感覚の共有に対して、常に、なんとなく、僅かな「ズレ」を感じているのではないでしょうか。

だから、言葉ではない何か別の形、言葉では共有しきれない「何か」を共有するために、もっとダイレクトに感覚を共有できる形、それは例えば「音楽」で、例えば「踊り」で、例えば「映像」で、それぞれの"想い"を表現し、感覚の共有を試みているのではないかなと思うのです。

そして、クリエイターにとって「好き」という感覚の正体は、完全一致に近い「感覚の共有」なのではないでしょうか。

だからこそ、自分で何かを生み出さない人に「好き」という感覚が「解るはずがない」と感じるような気がします。

noteにある「スキ」は、本当に「スキ」という感覚のものですか?

2014/08/02. by だるま


どうでもいい余談ですが、私は妻を愛しています。

ボヤッキー風に言うと 全国の女子高生の皆さんには まことに残念な余談です。

えぇ、私にとっても残念です。

しかし「愛している」という「感覚」は、皆、誰もが同じように感じる感覚なんでしょうかねぇ…。

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