20200902 今月の歴史街道は終戦特集。今日は降伏調印に重光葵がサインした日
8月15日が終戦記念日であれば、9月2日は敗戦記念日です。
1945年8月15日、連合国のポツダム宣言を受け、天皇陛下の玉音放送で終戦の詔が発されました。
しかし、当時、8月9日に参戦したソ連軍は進撃の手を緩めず、北海道陥落を狙い、進撃してきました。そして、8月18日~21日まで日本軍と激突したのが、占守島の戦いです。
つまり、国際的にも日本でも、8月15日に終戦はしたが、9月2日まで敗戦はしていなかったのです。では9月2日に何があったのでしょうか?
9月2日・日本史上初めて降伏文書に調印した日
1945年の9月2日、東京湾に浮かぶ米国の戦艦、ミズーリ号で、当時の外務大臣だった、重光葵が全権大使として降伏調印に向かいました。
詳しいエピソードは、全権に同行された、加瀬俊一さんの回顧録に詳しいので、下記URLをご参照ください。
上に詳しいですが、誰もが、降伏文書に調印することを恥だと思い、体のいい都合を言って、押し付け合いになったようで、最終的に、重光外相しかいないということになったようです。
加瀬俊一さんの息子さんである、加瀬英明さんも、戦後70周年の際に回顧録を書かれています。
俊一さんとお母様の壮絶なやり取りがあります。
父は9月2日に、東京湾に浮かぶ米戦艦「ミズーリ号」上の降伏文書調印式に、重光葵(まもる)全権に随行して参列していた。重光氏が降伏文書に調印するすぐわきに、父が立っている。その前夜、祖母が父を呼んで、「あなた、ここにお座りなさい」といった。 座ると、「母はあなたを降伏の使節にするために、育てたつもりはありません」と叱って、「行かないでください」といった。父は「お母様、この手続きをしないと、日本が立ち行かなくなってしまいます」と答えて、筋を追って説明した。祖母は納得しなかった。「私にはどうしても耐えられないことです」といって立つと、嗚咽(おえつ)しながら、父の新しい下着をそろえたという。
この新しい下着をつける理由は、全権大使に随行する際、暗殺されて屍をさらしても恥ずかしくないようにという、決意の現れです。
実の親にすら反対される、まして世論をやといった具合でしょう。その中で、重光はどういった気持だったのでしょうか。
重光の不退転の覚悟
ここで、重光外相が昭和天皇へ奏上した文章を引用しておきます。
「事ここに至ったのは真に遺憾の極みでありますが、歴史あってこのかた、多くの国が戦って、勝ったり負けたり到しました。しかし、勝敗そのものは、さして重要とは思われませぬ。真実に重要なのはどうして敗れたのかその原因を深くさぐり、真の敗因を除き去って、速やかに祖国を再建することであります。私のみるところでは、破局を招来した最大の禍根は、倫理的欠陥にあると存じます。これが真の敗因であり、これを清算しなくては、日本の再建は期し難いと存じます。
降伏文書の調印は、実に、その機会を提供するものであります。すなわち、この日にこそ、日本は倫理的再生の途につき、自由と民主主義のもとに民族復興の第一歩を力強く踏み出さねばなりません。私はこれが陛下の思し召しであることを、かねがね、よく承知しております。ですから、降伏を屈辱とのみ思わず、むしろ、日本に再起の出発点を約束するものとして、誇り高く肩をそびやかし、胸を張り、使命を果して後世の史家に、この日こそ日本民族の栄誉の日であったと、感嘆させる決心であります」
陛下に対しては、全く持って、祖国再生・倫理的欠陥の清算の第一歩であると。決して、国民が侮蔑の対象となるようなことがないと内奏しています。
一方、ミズーリ号に上がる際、こういった、句を読んでいます。
ながらへて甲斐ある命今日はしも しこの御盾と我ならましを
願はくは御国の末の栄え行き 吾名さげすむ人の多きを
1句目は、片足が義足となっても、生きてきた自らの命が、国家の盾になるぞという、決意。そして、2句目は、自分の調印する姿が後世、「降伏文書に調印した恥ずべき人物」とされるほど、日本が栄え、立派な国になってほしいという願い。
戦後75年経った私たちはその重光の思いを引継げているでしょうか。
歴史街道9月号は敗戦を戦った人たちの特集
PHP出版より発刊されている、月間「歴史街道」9月号は、重光葵をはじめ、8月15日の終戦から9月2日の敗戦までを戦った人物が特集されています。ご近所の書店でお買いもとめいただき、是非、改めて、戦後75年、新しい歴史の節目に自分の内面を見返すきっかけにどうぞ。
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