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パンを踏んだ娘

 ある曇りの日。
村の水場に小さな少女が母親をまっていた。
その足元に空の色をうつしたような灰色の小鳥が一羽まいおりる。
「小鳥、小鳥。おなかをすかせているのね」
少女はもっていたパンを小さくして小鳥にさし出した。
小鳥は少女の手にのると彼女の顔を見つめた。
 
 小鳥は昔、ひとりの娘であった。
名前はインゲル。インゲルは美しい娘。
彼女の家は貧しく、母とふたりきり。
 インゲルは悪い娘。
虫を捕まえて羽をちぎり、ピンで刺して木の葉とともに地面へ突き止めた。
「見て、飛べない虫が木の葉をくるくるまわして、まるで風車みたい」
インゲルは虫が木の葉を回し続けるのを見て笑った。
 
 時がたちインゲルはさらに美しくなった。
「私は美しいのに母は貧相でみっともない。こんな人が親だなんて、恥ずかしい。この家も、村も、全部が私に不似合いよ。綺麗な服や靴がほしい、あぁ、私ほど不幸な娘はいないわ」
インゲルの心は不満と怒りでみちていた。
村娘の前かけに火をつけて騒ぎをおこし、老婆の足をけり転ばせたりもした。
母親は困惑し、インゲルには家の手伝いも、簡単な仕事もしなくて良いから、大人しくしているようにいった。しかしインゲルはいう事をきかない。
「私はお金持ちの家の子になる。こんな家、出ていってやるわ」
インゲルは叫ぶと、村を飛び出していった。
 
 ある晴れた日。
インゲルは街へ来た。お金持ちの奥様が使用人を探していると聞いたのだ。
奥様は子供に恵まれず仲睦まじかった旦那様もなくして大きな屋敷でひとり暮らしをしているそうだ。
「私は美しいのだから、奥様に気に入られて屋敷の養女になれるわ」
そう思いインゲルは屋敷で働き始めた。奥様の前でつつしむインゲルは天使のよう。
当然のようにインゲルは気にいられ、我が子のように可愛がられた。
「きれいな街、立派な屋敷、どれも私に似合っている。あとはここの娘になるのよ」
インゲルはほほえみ、気立てのいい娘としてよく働いた。
 
ある雨の日。インゲルは奥様に呼ばれた。
「インゲルが来てから、もう一年になるね。お前は優しい娘だから村に残した母の事が心配だろう。休みをとって里帰りしておいで」
「奥様、ありがたいお言葉でございます。けれどもこの広いお屋敷にひとり奥様を残して、どうして村になど帰れましょうか」
「良い子だね、私は大丈夫。そうだ、手見上げがなければ帰りにくいだろう。ここに上等なパンがある。これをもっていきなさい」
 奥様は大きくておいしそうなパンを用意し、新しい服と靴を買いあたえた。
インゲルは綺麗な服や靴に気をよくして、パンをもって里帰りをする事にした。
 
 村へ続く道を進んでいくと、インゲルの気持ちはどんどん沈んでいった。
やがて村が見えてくると抱えているパンが重い石にでも変わったかのように感じる。
 家がみえた。
「あぁ、いやだ」とインゲルはつぶやいた。
家の近くでインゲルの母親が薪を拾っている。
インゲルは母親と目があった。
「汚らしい!」
顔をそむけて、インゲルは走り出した。
 
インゲルは家にも、屋敷にも帰らなかった。
ひたすら歩いて行くと、途中に大きな水たまりがあった。
 水は道いっぱいにひろがって底が見えない。
「これじゃあ、せっかくの靴が汚れてしまうわ。そうだ!」
インゲルは手に持ったパンをドロ水に投げた。
「どうせいらないパンなのだし、足が汚れるよりいいわ」
インゲルはパンを踏みつける。するとパンは勢いよく沈み、インゲルはそのまま水たまりの中へと沈んでいった。
 
インゲルは悲鳴を上げようとしたが声がでない。
手も足も、泥のように動かない。
動けないままインゲルは薄暗い水の下へと沈んでいった。底にたどり着いたインゲルの眼には水底で大なべをかき回している気味の悪い女が見えた。インゲルは顔を背ける事も、目を閉じる事もできない。
「おや、とても良い娘が沈んできた。美しい入れ物の中身が腐っている。心が水底の酒より臭いよ」
奇妙な女はゲラゲラと笑った。
「丁度いい。私の店に飾ってあげよう。水底に沈んだ罪人の体は腐らないし動けないからね。ずっとここで苦しみ続けると良いさ」
 インゲルは恐ろしかったが、石のように立っているしかなかった。
「酒は出来ているかい」と良く肥えた悪魔の奥様が入ってきた。
奥様はインゲルを見つけ、にたりと笑う。
「趣味の良い置物だね。私の屋敷に持って帰りたいくらいだ。私は心の貧しい人間が好きで、大きな屋敷の長い廊下には目玉ばかりギョロギョロさせた人間の置物が並んでいるよ」
 そう言ってインゲルをあざ笑った。
二人は彼女の美しい服や髪にドロをかけ、顔の上に気味の悪いヘビやヒキガエルをくっつけていく。
 しかしそんな扱いをされるよりもインゲルは空腹でいる方がつらかった。
「ああ、足元のパンが食べたい」
インゲルはそう思ったが体が動かない。
「だれか、だれか。おねがい、助けて」
 苦しむインゲルの頭上からたくさんの泡が下りてきて、耳元ではじけた。
聞こえてきたのはインゲルの噂話だった。
「あれは村の嫌われ者だよ。いなくなって助かった」
「街の奥様。かわいそうに、可愛がっていた使用人が行方不明になったそうだ。すっかりと気落ちして病気になってしまったそうだ」
「あの娘は、もともとそんな娘だったんだよ。人の恩を仇でかえす子だ」
「パンを踏んで水に沈んでいったのを見た人がいるそうだ」
「いい気味だ、きっと天罰がくだったのさ」
罵る声が雨のようにふりそそぐ。
インゲルを知る人も、知らない人までも悪口を言っている。
「おねがい、やめて」とインゲルは叫びたかった。
「だって、誰も私に良い事と悪い事を教えてくれなかった。お母さんは何も教えてくれなかった。何も、何も言わなかった」
インゲルは泣けない事が、こんなにも悲しい事であるとは思わなかった。
「お母さん、お母さん」
インゲルの呼びかけに答えるように耳元で泡が一つはじけた。
 中から小さな少女の泣き声が聞こえてくる。
「可愛そう。悪い事をしたら、謝っても駄目なの?ずっと一人で水の底に沈んでいないといけないの?もう二度と、お母さんに会えないの?そんなの可哀そう」
 その少女はインゲルの為に泣いていた。
母親は少女を慰めながら
「せめて、神に祈りましょう。私だって、間違いを犯していたかもしれない。どうか神様。インゲルを許してあげてください。あの子を地上に返してください」
 こぼれた涙が、まっすぐに水の底に落ちてきてインゲルの頬を打った。
それはとても暖かかった。
「お母さん、ごめんなさい。私は悪い子でした」
出ないはずの声が水底にひびき、インゲルの体は浮き上がっていく。
水たまりから飛び出したインゲルは人間ではなく灰色の小鳥に変わっていた。
そして小鳥はパンくずを拾い集め、自らの罪を償うようにほかの小鳥たちに分け与えた。
 
 ある曇りの日。
村の水場に小さな少女が母親をまっていた。
その足元に空の色をうつしたような灰色の小鳥が一羽まいおりる。
「小鳥、小鳥。おなかをすかせているのね」
少女はもっていたパンを小さくして小鳥にさし出した。
小鳥は少女の手にのると彼女の顔を見つめた。
 
少女の手にとまった、かつてインゲルであった小鳥。
そのインゲルを哀れみ、涙をながした少女。
 
見つめあったのもつかのま。
「こんなところにいたのね」
少女の母親が声をかけると小鳥は空へと飛び立った。
「あのね、灰色の小鳥が行ってしまったの。お母さんに会わせたかったわ」
「そうなの?でも、きっとまた会えるわよ」
母親はそう言うと、少女の手を引き家へと帰っていった。
その後、この物語がどうなったのか。知る人はどこにもいない。
 

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