頬粘膜がん 472日目 後日、祈りと願いについて


 頬粘膜癌 472日目。

 血圧 125 - 87 mmHg
 血糖 - mg/dL (朝食前)
 酸素 99 %
 脈拍 60 拍/分
 体温 36.4 ℃
 体重 73.3 kg

 今日の話題は少しセンシティブな内容を含むと思うので宗教的に一家言ある方は読まずに戻るボタンをしていただくかスルーの方向でお願いします。

 13日に無くなったお義母さんの葬儀は15日の昨日の木曜日に行った。
 火葬場の予約が取れたのが最短で木曜日の午後だったわけだ。夏場だったら、1日の違いもそれなりに心配の種になったり。人は亡くなったその瞬間からその体は酸化が始まっている。人間の体の中には防腐剤なんて入ってないんだから。
 それがお金に結びつく話になったり悲喜こもごもなのだろうと思うがこの2月という時期はそういう心配をする必要はない。

 家族葬だから小さな葬祭場である。20人ぐらいがマックスの会場。

 家族で送ろうとなれば逆にあまり会場が広いと寒々しくてアレだとも思うので丁度いい感じだ。僕はこの会場の雰囲気は好きだな。


 僕はまぁどこの宗教の教えにも属していない人である。

 統計に寄れば日本人の6割ぐらいは無宗派らしいので別に珍しくはないと思う。クリスマスも正月も、お盆も、その時々のマツリゴトについてはその時々の状況で酸化したりしなかったり好き勝手である。けれど、まぁ宗教的に参加するということはない。


 で、お義母さんはどうだったのかというと、おそらくではあるが似たような感じで無宗派であっただろうと思われる。もしかしたら違う可能性もゼロではない。面と向かって聞いた事はないから。

 僕の奥さんは僕が宗教的にどこの宗派にも属しておらず気にしてないことは知っているので僕に何かがあったときにこの宗派でよかったかどうか?みたいな悩みは起きない筈だ。たぶん。


 で、お義母さんはご実家におられたときは仏壇の世話はしておられたが別に朝のお勤めはされておられなかった。月参りもされてなかったと思う。僕の家に引き取ってからは僕が仏壇を持たない人なのでそういう事はなにも行っていないわけだけれど、特に何を言われることもなかった。


 さて、葬儀をするにあたり聞かれるのが故人の宗派である。決まったお寺さんがあるのかどうか、なければ宗派はどこか。それによってお経をあげてもらう住職さんを手配する必要があるからだ。

 仏教の世界ではお経をあげてもらうのと戒名を付けてもらう必要があり、それに対してご住職にお布施をお渡しするわけだ。


 仏教の世界では、通夜があって、葬儀があって、初七日があって、四十九日があり、納骨という段取りになる。そのすべてにお経が寄り添う。

 取りあえずは通夜と葬儀にはお経をあげていただくことになるので宗派をどうするかということになるわけだ。厳密に言えば、お経を上げないという選択肢もある。おそらくだけど、キリスト教の場合はもちろん神父さんをお願いすることになるだろうし、確か創価学会の葬儀に行った時にはお坊さんじゃなくて背広を着た人がお経を上げていたなぁ。友人葬と呼ばれるものらしい。


 まぁぶっちゃけ面倒くさいので浄土真宗でお願いした。

「お西ですか、お東ですか?」

おっと、そこまでは実は考えてなかった。が

「西で」

とお願いした。


 で、無事お経もあげてもらったし、戒名(浄土真宗では法名というらしい)もつけてもらった。葬儀の時は通常のお経と、初七日にあたる日のぶんのお経も一緒にあげてくださるシステムなんだそうだ。これで、初七日の日にお坊さんを呼んでお経をあげてもらう必要はないらしい。


 便利な世の中になったものだ。一応そういうことでいいのだそうだ。

 これについて、本来は! とかってのは僕には特にないのでOKです。


 葬儀でお経をあげてもらっているとき、急にやってきて知らない人のお経をあげるお坊さんについて考えていた。


 本来は、つきあいのあるお坊さんがお経をあげてくださったりする。お経の後に、故人の思い出話をされたりとか、法話があったりする。お坊さん自身が故人の事を知っている。多分、そういうものだよねぇと思う。

 でコンビニエントな葬儀ではそういう縁のないお坊さんがお経をあげてくださる。知ってる人を弔うのは当たり前のことだけれど、そういう縁の無い人を弔うというのは広い心だよなぁと思う。宗教というのは本来そういうものであって欲しいと僕は思う。無宗教のくせに何を言うという話ではあるが。

 知り合いだから助けるのではなく、知らない人だって今目の前にある人を助ける。知り合いだからと弔うのではない、知らない人だって弔うのだ。他人の為に祈る行為はなんて高貴な志だろう。


 もしも、お義母さんが心の中でひっそりとキリスト様の教えを大切にしていた人だったとしても、来てくださった浄土真宗のお坊さんの弔いの気持ちは、そのお経は意味のあるものであるだろうなぁと。


 きっと毎日世界中で、いろんな宗教の方達が祈っている。


 仏教の人達は仏教徒だけが助かるように祈っているわけでもないだろう。キリスト教の人達はキリスト教徒だけの幸せを祈っているわけでは無いだろう。


 言ってみれば、無宗教の人だって、みんなの幸せの為に願ったりする。

 僕は特に何かの宗教に属しているわけではないけれど、今僕と同じようにがんで闘っている人達が少しでも安らかに過ごせる時間があることを願っている。


 僕は、僕自身の欲望についていろいろ願うことはもちろんあるけれど、それでも、僕以外の同じような境遇であったり、気持ちであったり、いろんな縁で知り合った人達について共有できる何かがあるときに、その人の幸せも願ったりする。


 個人が、自分以外の誰かについて願う時、それは原初的な祈りの形なのかも知れないと思う。一番小さな単位での尊いもの。そういうのが願いなんじゃないだろうか。


 多くの人に、お義母さんのことで優しい言葉と心をいただきました。
 ここに深く感謝とともに御礼申し上げます。



 今日もいい1日であった。


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