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つまり決闘のルール化なんだよ

なぜ俺が大道塾?
 俺が入門したのは18歳の時。西暦でいうと1988年だ。皆さんは1988年といってもピンと来ないかもしれないが、その1~2年ぐらい前から格闘技雑誌が次々と創刊され、いわゆる格闘技ブーム真っ盛りの時代だった。俺は14歳から少林寺拳法や柔道をやっていて、最終的には空手をやると決めていた。そして入門するのは勿論、極真会館だと思っていた。しかし土壇場になって大道塾に寝返ってしまったのはどういうことなのか?
 その頃極真会館は大変大きな組織で、ルールや大会運営はもう完成の域に達していて、つまり成熟した団体だった。それに比べて大道塾は極真から別れて7年ぐらいしかたっていない新興団体だった。なのでまだまだ未成熟な状態。このような未成熟な新興武道団体というのは外に向かって戦いを挑む傾向にあり、極真会館も草創期の頃はそうだったし、その後、正道会館やなんかもそうだった。その頃の大道塾は北斗旗という自分の団体が主催している大会を前提にしながらも、他の格闘技に対してのアプローチを繰り返していた。長田先輩を筆頭に市原先輩や加藤先輩、その他もいくつかあったが、とにかく異種格闘技イケイケ状態。世界大会を最終到達点に置く極真とは真逆の姿勢を取っていた。
 勢い、外人対日本人、団体VS団体、様々な世界の格闘技VS空手という二項対立の世界こそ男の世界だ!という梶原一騎イズムに毒された18歳の若者の心を掴むのは無軌道な攻撃性を貫く大道塾に他ならなかった。
 もうひとつ、大道塾というのはある意味、理屈の団体だった。顔を殴ったらどうなるか?投げたらどうなるか?寝技を入れたらどうなるか?人間同士が格闘する上で想定される現象を試合の中で仮想的に実現しようという実験の場が北斗旗だったとすれば、勝敗を決するためにルールを設定する他の格闘競技とは少し方向性が違っていた。つまり、決闘のルール化である。「基本的に何でもありの状態で強いのはどっちだ?」という問いへの返答に一番近い答えを出そうとしていたのが大道塾だったかもしれない。今でこそMMAなどの競技総合格闘技がメジャー化して、決闘の競技化はそれほど目新しいものではなくなってしまったが、当時の格闘技、武道団体として大道塾の存在はまさに異端である。
 東塾長がそれまでの経験から考案した様々な概念を具現化していく弟子たち。大道塾の標榜する「格闘空手」は確かに猛烈なエネルギーを発していた。少なくとも俺にはそう見えた。俺もその理論を具現化して最強の男になりたい。どんな格闘技の相手でも対応できる最強の空手戦士になりたい!若者の単純明快な夢である。少なくとも90年代前半まで大道塾は日本中からそういう夢や目的意識を持った人間でごった返していた。そりゃ~もう強い人間が続々と東京の総本部目指してきてるんだから大変なもんでしたよ。

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